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2009.12.24

政府が首をつる

サンケイ新聞より「【正論】社会学者・加藤秀俊 文化芸術は実利主義では育たず

≪最後は「自分」もムダに≫

ある男、女房、番頭、それに丁稚(でっち)を置いて4人で商売に精を出す。売り上げも順調。

そこで考えた。この商売、人手を減らしてもやってゆけるんじゃあるまいか。
丁稚をクビにして3人で店を経営してみると、これでもだいじょうぶ。

そんならふたりでもよろしかろう、と判断してこんどは番頭に暇をだして、夫婦だけでやってみたらそれでも商売は順風。
こうなると女房だってムダだ。そこで離縁。

たったひとりで店に立つ。
それでも経営はビクともしない。

そこで男は考えた。なるほど、俺もムダだったのだ、と結論し、首をくくって死んでしまった。

おなじみの小咄(こばなし)だ。4人でできるしごとを3人でできるなら1人はムダである。
3人ぶんの作業を2人でできるなら1人ぶんのムダを排除できる。
そうやってムダを整理してゆけば最後はじぶん自身もムダだ、ということになる。

たしかに、世の中、なにがムダかといわれてよくよく考えるとたいていのものはムダかもしれぬ。

「生活必需」という観点からみれば、たとえば携帯電話はムダであり不要である。
めったに運転することもない自家用車をガレージで眠らせておくのもムダである。
テレビだって生活に不可欠のものではないからこれもムダ。
流行の衣料品、ましてやブランド品なんかはぜんぶムダ。
家具什器(じゅうき)の多くも、なくたって暮らせる。

≪直接カネにはならないが≫

そうおもえばたいていのものはムダ。

とりわけ学問や芸術などという呑気(のんき)なものはムダのカタマリである。

わたしの友人のなかにはメソポタミアの文字を解読することを職業にしている学者だの、昆虫の目玉の構造を研究している教授だの、あるいはアフリカ奥地の少数民族の言語を調査している人類学者だの、じつにふしぎな人物がたくさんいるが、これはぜんぶムダ。
なんの役にも立たない。
役に立たないから漱石はこれを「高等遊民」と名付けさせた。

絵画彫刻、生け花茶道、能歌舞伎、映画演劇、小説戯曲…こんなもの、いったいなんの役に立ちますか?と問われて答えられるひとはまあいないだろう。

教養を高めることができる、とか生活にウルオイを与えてくれるとか、そんな理屈をひねりだすことは可能だろうけれども、それではなぜ教養が必要か?といわれたら絶句する。

役に立つかどうか、という実利主義をモノサシにして議論されたらおよそ文化というものは成立しえない。ムダといえば文化芸術はことごとくムダなのである。

ムダだから、これは切り捨てにしますという論法には勝てない。
メソポタミアも昆虫の目玉も、ぜんぶムダ。
はあ、さようですか。お国の方針がそうならしかたありませんね。

科学技術だってそうだ。

こちらのほうはシロウト眼からみるとなんとなく役に立ちそうな錯覚におちいるが、じつのところかならずしもそうではない。

たとえばロケットを飛ばしてなんの役に立つのか。

科学者はたちどころに宇宙の謎が解けるといったようなことをおっしゃるが、それでは宇宙を解明してなんの役に立つの?と問われたら答えに窮するだろう。

山本夏彦さんが「何用あって月へ」と一言で喝破なさったように、月世界探査だって、あんまり実利には結びつかないのである。

いや役に立って、それがすぐに金儲(もう)けになりそうな研究は民間会社がとっくに総て開発している。

製造業の一流会社といわれるところには研究所があって技術競争のシノギを削っている。
ところが基礎研究や長期にわたる大型設備を必要とする大学や研究所は直接的にカネにならず、役に立つしごとをしていない。

だから公的支援によって研究と教育をしてきたのである。

≪結局は政府が首をつる?≫

もともと学問や芸術というもののすくなからぬ部分はパトロンあってはじめて成立した。近代国家の成立後は国家がパトロンになった。

各国ともに「芸術文化政策」「科学技術政策」をかかげるゆえんである。
世間的にはムダ以外のなにものでもないようなことがらに国がおカネをだす。
だから博物館も美術館も大学もどうにか生き残っているのである。ムダなものにはおカネをだしません、というならそれでオシマイ。

いまを去る半世紀以上むかし、日本を「文化国家」として再生させよう、という努力目標があった時期には「文化政策」があった。「科学政策」があった。

あえていつからとは言わぬが、こうしたムダへの配慮がここ20年ほどのあいだに消えてしまったようなのである。

競争原理、市場原理、なんでも民間商業主義をモデルにせよ、という思想はいまにはじまったものではない。
政権政党がかわっても文化軽視の風潮はかわらない。

それもよかろうが、こうして文化学術にかかわるあらゆる公的支出をあれもムダ、これもムダといって切り捨てていったら、冒頭の小咄の主人公のように、結局は政府が首つりする以外にあるまい。

そのことをわたしは悲しむのである。(かとう ひでとし)

まことに見事に、現在の漠たる危機感のわけを表していると思います。

12月 24, 2009 at 09:44 午前 日記・コラム・つぶやき |

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