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2009.10.10

Winny 事件の問題点

昨日(2009/10/09)は朝6時出発で、翌朝3時に帰宅の日帰りで、ネットワーク・セキュリティワークショップ in 越後湯沢に参加してきました。

白浜シンポジウムと同じく、木曜の昼に始まって土曜日の昼で終わる、足かけ3日のプログラムの真ん中だけ参加しているわけです。
さらに、わが家から湯沢だと3時間弱ですから、24時過ぎまで議論(?)していても、3時には帰宅出来ます。

今回の目玉は、誰がなんと言おうと、Winny 控訴審・無罪判決でありました。
3日間のプログラムはこれですが、2日目午後一番の講演「情報セキュリティ、個人情報保護、内部統制の相互関係を読み解く」の発表者である岡村久道弁護士は、パワーポイントを書き換えて、Winny 控訴審についての見解と解説を先にしました。

今回も、上原先生、岡村弁護士、丸山さん、佐々木先生、といった大物を初め、院生やOBといった方々と話をしてみました。話しているうちに段々と固まってきたのが、Winny 裁判を法律問題だけでとらえるのは間違いの元ではないのか?です。

上原先生は、控訴審について「包丁なのかピストルなのか、調べないで判決しているのは問題だろう」とのご意見であり、さらに「コードを読めば、何を作ろうとしたのか意図も分かるはずだ」と判決の論拠を問題にされています。

Winny 裁判については、当初から「包丁を作る事と、悪用することは別だ」論が強調されていて、特に技術開発の観点からは「開発自体を阻害するのは国家的損失である」といった意見が主流でありました。
もともと、この裁判は「著作権法違反」であり、さらにそのほう助が成立するか?だったのですから、論点は「著作権法違反をするためにソフトウエアを作ったことになるのか?」でありました。
ソフトウエアを制作する事についてだけ見てみると、検察側のこの主張はかなり無理があります。

しかし、現実には Winny は今も著作権法違反事件の道具として使われているわけで、この二つの間にある「何か」をどう考えるのか?という議論がほとんど無いと気づきました。

この「何か」を他の事件に当てはめてみると「事故」が相当するのではないのか?と思いつきました。

Winny 裁判について、刑事・民事で法的に決着が付いたとしても、ソフトウエアとしての Winny に問題がないことにはなりません。
刑事・民事の責任が明確になっても、事故が無くならないのでは社会的に問題だ、というのは航空機事故などを初めとする事故調査の問題としてわたしが以前から強く主張しているところです。

法的責任と社会的な問題解決はイコールではありません。
Winny は社会的な問題を解決するべきですし、Winny の公開について社会的に問題があったのではないのか?との評価と議論は不可避でしょう。

わたしは、Winny を誰でも使える状態で公開したのは、技術者の倫理の点では間違えであると考えます。
何かを作ったり、売ったりする場合には製造物責任といった形で、供給側には相応に責任があり、その中には倫理的な側面も当然あります。

ほとんどすべての技術は、もろ刃の剣であり、人を助ける技術の裏返しは人を殺す技術でもあります。
そこで、ほとんどの業界では「これをやると人が死ぬからやってはいけない」といったノウハウがあるわけですが、このノウハウを使うのは「プロフェッショナル限定・業界限定」ですから、ノウハウの共有が出来るわけです。
そこには「情報共有範囲を限定する倫理」が求められているわけで、すべてをオープンにして良いわけがありません。

Winny については、開発も利用も技術的には問題がない、と考えるべきです。
特に技術という面からは「作ってみないと分からない」ことは多いのですから、基本的に技術開発自体を事前に差し止めてはいけません。
しかし、それが全面公開して良い事ではないのですから、問題点は「公開のやり方」であったと言えましょう。

要するに「問題点」があって、それが解決していない事こそが、Winny 裁判で一番の問題なのではないでしょうか?と強く思うのです。

10月 10, 2009 at 10:08 午前 もの作り |

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コメント

記事読ませていただきました、Winny裁判の判決で自分が釈然としなかったことが解決されました。
法律的に無罪であっても、責任はないのか?
包丁等と比較されるがそんな簡単なことでよいのか?
もっと深く考える必要があると改めて思いました。

投稿: いちSE | 2009/10/10 11:25:51

なるほど
単に包丁を作って罰せられるのはおかしい、というのは短絡過ぎますか。
その間。。。
欠陥ソフトウェアというだけでは短絡過ぎますか~?

著作権にも欠陥があるのかもしれませんしね。
身内や友達同の会話にアングラな情報は入るもの。
P2Pネットワークにはアングラが入る前提が必要で取締に意味は無いかと

投稿: 宵 | 2009/10/10 21:36:19

宵さん

>単に包丁を作って罰せられるのはおかしい、
>というのは短絡過ぎますか。

上原先生は、「包丁を作ったのか、ピストルを作ったのかが公判廷で明らかにされなかった事が問題」というご意見です。

つまり「包丁を作ったのに罪なるのか」という議論であれば、作る事に問題はないとなりますが、これがピストルを作ったとなると法的に問題になるのは明らかです。

この「作る事に」についてすら「何を作ったのかを裁判所(検察も)解析していない」、だから「そんなものは専門家が解析すれば良いのになっていないことが問題」と裁判全体を批判しています。

ところで、包丁であっても店の前でケンカしている片方が店に駆け込んできて「包丁を売ってくれ」と言ったときに、包丁を売るのは正当なのか?という問題は、包丁を作る事とは別にあります。

わたしは、今回の事件全体を通じて、作る事と使うことだけに焦点を当てた議論になっていますが、それがそもそも見当ちがいではないのか?と思うのです。

要するに、上記の例えのように「流通のコントロール」は社会的に必要であり、それはソフトウェアを含めたモノの属性そのものではない、ということに注目するべきだと考えます。

投稿: 酔うぞ | 2009/10/10 21:55:58

法律に関する原理的な問題は既に以下のように解明されています。

「法律の問題はコミュニケーションのそれ、サイバネティックスのそれである。即ち、それは一定の臨界的な事態を秩序正しく且つ反復可能な仕方で制御する問題である。」(人間機械論/ノバート・ウィーナー)

ちなみに「サイバネティックス」という言葉の意味は、用語を作った本人による説明は以下のようなものです。

「われわれの状況に関する二つの変量があるものとして、その一方はわれわれには制御できないもの、他の一方はわれわれに調節できるものであるとしましょう。そのとき制御できない変量の過去から現在にいたるまでの値にもとづいて、調節できる変量の値を適当に定め、われわれに最もつごうのよい状況をもたらせたいという望みがもたれます。それを達成する方法が Cyberneticsにほかならないのです。船の場合、風向や海の状態が今まで移り変わってきた模様によって舵をうまくとり、与えられたコースに最も近い航路を船が進むようにすること――これがちょうどその一例になっています。」(サイバネティックス/ノーバート・ウィーナー)

「犯罪を犯す意志」というものはあって当然のものであり、本質的に無くす事の出来ないものなので「われわれには制御できないもの」に該当すると私は考えます。

「ここでいう本性というのは、人類が人類であるための性質なのであって、その中に、本当の闘争性というものがあるならば、戦争というものは、在るのが本当なのである。
 ところが世界中のどの政治家でも、平和というのが人類の本性の姿で、戦争は、その正常の生活の中にときどき現われる病的現象であるかのような議論をしている。誰にしてみても平和の方が良いには決まっているが、ときどき戦争をするのが本性であってみれば、戦争は一つの自然現象なのだから、どうも致し方ないことである。
 もっとも人間の本性には闘争性が認められるが、それはまた文明の進歩と教育の力とで消滅させられるという議論も沢山あることであろうが、ここでいう本性とは、そういう生易しいものではない。
「人類が人類であるための性質」を意味しているのである。」(人類の闘争性/中谷 宇吉郎)

従って「われわれに最もつごうのよい変量の値」を具体的に定める事が問題になります。酔うぞさんのおっしゃる「流通のコントロール」は「変量の値」に相当するものだと私は考えますが、「われわれには制御できないもの(本性)」は存在し続けますので「秩序正しく且つ反復可能な仕方で制御する」事が社会的に必要だという事になります。

投稿: 田吾作 | 2009/10/11 14:29:14

2点ホビイストの観点からコメントを。
1. 「コードを読めば、何を作ろうとしたのか意図も分かるはずだ」
 おそらく、コードを読めば作者の意図がわかると主張された方は、複数での開発が前提となっている組織のプログラマ経験者の方でしょう。コード解析が有効なのは他人に読ませることを前提にしているソフトウェア開発の場合だと思います。しかしWinnyに限らず日曜プログラマの趣味の作品は、他人に読ませることを考えずに着手すること、設計を終えてから開発するのではなくトライ&エラーでまず動かしてから設計を固めることが多いので、成果としてのソースコードを読んでも当初のゴールはわかりません。その結果、ソースコードが公開されても誰も手を入れられずにけっきょく一から書き換えてしまったソフトウェアは数多くあります。
 この点で趣味のソフトウェアは工業製品よりも手仕事や文芸に近いので、コードからソフトウェア作者の意図を解釈するのは労多くして証拠たりえないと思います。Winny評論の場にホビイストがいればよかったかな、と思いました。

2. 「技術者の倫理の点では間違えであると考えます」
 これも日曜プログラマの観点からとらえると難しいですね。まず、職業倫理を趣味の世界にまで要求できるのかという問題があります。おそらくシンポジウム参加者の方は職業でのみソフトウェアに関わっておられて自宅ではプログラミングしていない方ではないかと思いますが、Winnyは職場ではなく自宅での趣味の産物です。
 そもそも趣味のプログラミングの世界では、プログラムを書いて他人に使ってもらわない人はあまり想像できません。(日曜ソフトウェア作者のエートスは新聞に俳句や短歌を投稿する方々が近いかもしれません。紙上でも掲載作を踏まえた新作が投稿されることもあります。)実際にゲームソフトウェアでは同人ソフト即売会があり、研究であれば学会があり、学生だったらソフトウェアコンテストという場もあります。そうしたコミュニティに属さない趣味のソフトウェア作品が掲示板での流れの中で投稿されるというのは不自然ではないとおもいます。それがコンビニ雑誌で毎月お宝ソフトウェアとして紹介されて数十万ノードのブラックネットになるとは予測できないでしょう。(京都府警は作者だけでなく、お宝コンビニ雑誌の出版社も幇助で逮捕すべきだった。)
 ちなみに製造業や法曹界とちがって、職業訓練を受けなくても資格試験を受けなくてもソフトウェアを書くことはできます。(Winnyの作者も大学での専攻は別の分野ではなかったかと記憶しております。)すると職業倫理を要求するのも難しい。

 ということで、ホビイストのソフトウェア作者の立場を考慮すると責任論は現実的ではないと思われます。これからもソフトウェアの世界は専門外の人が作品を世に問う分野であり続けます。その中には作者の予想もしなかったインパクトをもつ作品も現れるでしょう。そしてそのソフトウェアを使って商売をしようとする人も現れます。これは責任を批判しても仕方がない。むしろそうしたソフトウェア作者の窓口となったり相談役が必要になってくると思います。その点で、Winny作者を支援する会の方々がプログラマ向けの無料法律相談を実施したのはとても有意義なことだと評価しています。

投稿: S. Yamane | 2009/10/12 3:36:47

S. Yamaneさん

    > ということで、ホビイストのソフトウェア作者の立場を考慮すると
    >責任論は現実的ではないと思われます。
    >これからもソフトウェアの世界は
    >専門外の人が作品を世に問う分野であり続けます。

どのような範疇での「責任」であるのか?
どのような分野の「専門外」なのかを明示されていないので、仮定します。

「刑事上の責任」とすると、一審と二審で事実認定が同じなのに、正反対の判決であったことからも、刑事責任を追及出来ない可能性が大きいです。
これが「民事上の責任」となると、誰でもナンでも追求が可能ですから、何百・何千回も賠償請求訴訟を提起することが可能ですし、それはさほど濫訴とは言いがたいです。なぜなら、現実に損害が発生しているわけで、その原因の一つがソフトウェアを公開したから、ということに争いは無いからです。

しかし、民事上の責任を追及することがナンセンスであるとも言えるわけで、どこに問題があるのか?というのが、このエントリーの趣旨で「全面公開してはダメだろう」というのがわたしの主張です。
つまり、製造については民事・刑事とも責任は追及出来ないから法律上の責任を被告個人が負うのは意味がない。

しかし、社会人としてやってはいけないことをやってしまった。という批判はするべきだと思っています。


「専門外だからソフトウェアを世に問う」のは実験の範囲であって、公開して良いわけがありません。

間違いなく「素人だから責任はない」というのが背景にある思想であって、社会はそれを抑止しなければなりません。
作る事、実験することと、公開することの間には、とてつもなく巨大な溝あるいは壁があって、それを越えること自体に責任が必要なのです。
越えた時点で社会的には「専門家」になってしまい自動的に「公開の是非」について誰にも同等の責任が生じるものだ、と考えています。

そういう考え方をしないと「専門家」とか「専門業者」「メーカの責任」といったものが「専門外ですから」で全部が無くなってしまう。
社会的には「専門外の人は裏庭でやっていてくれ」は外すわけにはいきません。

投稿: 酔うぞ | 2009/10/13 8:51:05

 なるほど...これはコメント欄の文字数では埋められない文化の違いですね。
 子供のころからプログラム投稿雑誌に親しみLinuxなどフリーのソフトウェアに日々触れている身としては、ソフトウェアを書いたら公開するのを新聞の投稿欄と同じくらい自然に考えておりました。5年前のWinnyネットワークが放置されているのは問題だし心が痛みますが、その一方で世界中の同人やアマチュアが無数のソフトウェアを公開し、その中には「悪用するな」と注意書きのあるものも数多くあるということも頭の片隅においていただければと思います。
 再発防止策として現実的か非現実的かという観点は、責任の是非を問う論とはうまくかみあいませんでした。とりあえず、技術的可能性については今後の参考にしていただければと思います。
お騒がせしました。

投稿: S. Yamane | 2009/10/13 13:19:19

    >一方で世界中の同人やアマチュアが無数のソフトウェア
    >を公開し、その中には「悪用するな」と注意書きのあるものも
    >数多くあるということも頭の片隅においていただければと思います。

これは承知しているのですが、問題は作者の意図と利用者の意図の食い違いをどうするか?なのです。

わたしは、1988年から2003年までFAフォーラムのSYSOPでした。
パソコン通信のNIFTY-Serveでは、プログラムの公開はSYSOPが許可しないと公開できない仕様でした。
(外していたフォーラムはあった)

FAフォーラムに、工作機械を動かすプログラムをアップした方が居ました。
わたしも、その方面のプロですから、見ただけで「これはダメだ」でした

ダメというのは、機械が暴走する(コンピューターではないことに注意)する可能性がある、バグ付きのプログラムだったのです。
そのことを注意したところ「暴走する可能性があると書くから」といった展開になったわけです。

いくら、注意書きを書いたとしても、機械を壊せばそれだけで数百万から数千万円以上の損害が出ますし、万一にも怪我人が出たらどうするのだ?というレベルの話なのですから、「アマチュアが練習に作ったソフトというレベルではダメで、プロ仕様まで詰めて下さい」ということでお断りしました。

確かに文化の違いですが、はっきり言って「プログラムを作って、その影響については知らない」では通用するわけがない。
影響について考慮するのは当然で「注意書きで逃れることができる場合とできない場合がある」ということです。

わたしは、S. Yamane さんに「プログラム投稿雑誌に親しみ・・・・」という良きアマチュアの世界から、責任がついてまわる世界に出て行っているのだ、とご理解をいただきたいのです。

投稿: 酔うぞ | 2009/10/13 17:28:26

酔うぞさんがあえて書かれているとは見抜けず、失礼いたしました。

今回の判決基準でも、Winnyを使った著作権侵害を承知で、商業としてWinnyを提供した場合には有罪になると理解しています。SYSOPも有形無形の報酬がでる場合はそのように振る舞って当然でしょう。それに対して、掲示板の読者に使ってもらいたいというソフトウェア作者の意欲をどう確保するかと言う点はもうすこし勉強してみます。
 なんどか雑誌について言及させていただきましたが、配布の是非は最終的にはWinny収録雑誌を含む出版物の規制の是非に関わってくるでしょう。(ソフトウェアは著作物であり、著作物の配布は出版まで規制しないと貫徹できない。)これについてはWinny開発者裁判とは別の話なのでまた別の機会に。

投稿: S. Yamane | 2009/10/13 21:24:49

わたしは、判決が二分したことから、検察の主張である「著作権法違反幇助」はあまりに無理筋で、法的な側面だけを追求すると控訴審判決の「証明が無い=無罪」の判断を支持します。

幇助罪なのだから、本質的に従犯です。
つまり、主犯が居て(今回は群馬の人で有罪が確定しています)、従犯が居るという構造なのですが、今回は主犯と従犯は接触していないのですね。

ソフトウェアの制作者と使用者ですから、それが主犯・従犯を構成する理屈はナンなのだ?という、今回の裁判では超根本的なところに疑問符が付いてしまいます。

包丁を違法行為のために用意しただけでは、実際に犯罪が起きるとは言えません。
用意した包丁で「刺してこい」と「教唆」しないと、主犯・従犯の一体性が完成しないわけです。

その意味では「包丁を作ったら処罰されるのか?」という問題提起は正しいわけです。


しかも、一審・二審とも Winny を技術的に中立であると、根拠を示さずに、認めています。
この点はむしろ「技術開発自体は、使った結果が重大であっても中立である」という解釈ではないのか?と思います。

つまり裁判所は、犯罪的な技術というものは存在しない。という解釈をしているのかもしれません。


じゃあ、現実に起きた著作権侵害はなぜ発生し、その責任はどこにあるのか?
となりますが、問題は「全面公開」にあると思います。

しかし、法律的に「公開してはいけない」モノは極めて少ない(わいせつ物などでしょうか?)わけで、プログラムがその対象にならないことは明らかですから、結局はわたしの考える「公開したことの問題」には法律は無力である、となってしまいます。

結論としては「今回の事件を法律的に問題にすることが間違っている」となります。
その意味では、小飼弾氏が「#news - Justice is done! - Winny二審は逆転無罪」
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51303591.html
で書いた

    >私が中二なら、金子さんは小二。
    >ずっと無邪気で、そして「大人の事情」に疎かった。
    >Winny裁判すら、そんな金子さんを「世を倦んだおやじ」にすることは
    >出来なかった。
    >
    >この人を、罰してはいけない。
    >
    >この人を罰することは、ソフトウェア開発者を無差別無根拠に
    >罰することを正当化してしまうという社会的理由にとどまらず、
    >「少年の心を持つ」ことそのものを罰するという、
    >人道に対する罪にすらなってしまう思いを持たずにはいられなかった。

はその通りだと思います。

正に問題は「大人の事情」の部分にあるわけで、社会としてはそこを強調し過ぎるほど強調するべきだと思っています。

結局は、オモチャのピストルのつもりで大砲をぶっ放したとでもいうべき問題なのですよ。
オモチャのピストルですら作るのは大変なのに、大砲を作ってしまったのは作ることだけ見れば立派なモノです。
しかし、ぶっ放してから「こんなことになるとは」と言われても社会が困ってしまうことに代わりはない。

どこかが、悪かったのに決まってます。

そして、裁判で明らかになったのは「作ったことに責任はない」なのですから、それ以外のところに問題があるに決まってます。

一言で言えば、これは「流通させたこと」なのであって、一部の雑誌が煽ったことなどは大いに批判されるべきです。
当時も一部では「こんなに雑誌で紹介して良い話なのか?」という議論はありました。

そんな事も含めて、問題を厳しく切り分けることこそが、今一番必要なことだと思います。

投稿: 酔うぞ | 2009/10/14 1:04:04

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