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2009.10.03

裁判や事故調査に神の視点は避けるべきなのだ

サンケイ新聞より「『現代の赤紙』廃止を 制度反対の全国集会

裁判員制度に反対する弁護士らのグループ「裁判員制度はいらない!大運動」が2日、東京都新宿区で全国集会を開き、参加者は「被告に死刑や無期懲役を言い渡す国家活動に国民を駆り出す『現代の赤紙』の制度を廃止しよう」と宣言した。

集会には市民ら約450人が参加。基調講演したジャーナリストの斎藤貴男さんは「司法権力が下す判決に市民がお墨付きを与える構造」「裁判で真実が解明されるとは限らないが、市民が総出で真実と決めてしまう」と制度を批判した。

グループの事務局次長を務める藤田正人弁護士は、これまでの裁判員裁判を分析し「裁判員が被告に取調官のような質問を連発し、密室での取り調べが法廷で再現された」「被害者の意見が裁判員に影響を与え、重罰化をもたらした」と説明した。

この運動については、 最初の裁判員裁判 でも取り上げましたが、わたしには反対の原理が分かりません。

特に今回の報道に出てきたキーワードには非常に重大な問題がある、と強く感じます。

  • 「司法権力が下す判決に市民がお墨付きを与える構造」
  • 「裁判で真実が解明されるとは限らないが、市民が総出で真実と決めてしまう」
  • 「裁判員が被告に取調官のような質問を連発し、密室での取り調べが法廷で再現された」
  • 「被害者の意見が裁判員に影響を与え、重罰化をもたらした」

「司法権力が下す判決に市民がお墨付きを与える構造」

司法に権力があることは確かですが、それを市民が支持することは、罪なのでしょうか?
だとすると、市民による多数決原理を否定することになりませんか?

「裁判で真実が解明されるとは限らないが、市民が総出で真実と決めてしまう」

真実が解明できるとは限らない、と断定出来ないでしょう。
意見の対立があって、一方が真実を解明したとし、もう片方が真実を解明してはいない、と反論することはよくあります。
裁判において、真実が解明するとは限らない、というのは周知のことでしょう。
それを「事実だと認定する」のが裁判であるのですから、裁判制度を否定する他にこのような意見が成立する余地がありません。

「裁判員が被告に取調官のような質問を連発し、密室での取り調べが法廷で再現された」

従前から、裁判官は法廷で被告人質問として取り調べをしているわけで、個々の裁判員の質問がまずいというのなら、それについて具体的に指摘するしかないでしょう。
裁判官だから良くて、裁判員だからまずい、ということならそういう指摘をするべきでしょう。裁判員裁判を否定する根拠には全くならない意見だと思います。

おそらくは、「大衆によるリンチである」と言いたいのではないでしょうか?
であるのなら、「裁判員裁判は、選ばれた裁判官によらないのだから、大衆によるリンチだ」と明確に主張するべきだと思います。

「被害者の意見が裁判員に影響を与え、重罰化をもたらした」

これは、裁判員制度とどういう関係があるのですか?
被害者参加制度の問題ですよ。 まして、被害者参加制度はより重罰化することを間接的な目的にした制度ですから、結果が重罰化をもたらすのは当然であって、裁判員裁判とは関係ないでしょう。

というわけで、「何を主張しているのかさっぱり分からない」ことは代わりはないですが、何回も「分からない」と書いても進歩がありませんから、裁判員裁判反対運動の原理であろうことを推測してみます。

結論は「神を求めている」のだと考えます。

「司法権力が下す判決に市民がお墨付きを与える構造」

司法権力を認めつつ、市民はそれに触れてはならない。
触れてはならない権力とは、神の権力、神権と置き換えてもなんら違和感がないでしょう。
わたしは、司法権力をコントロールするのは市民の権利である、と考える者です。
だからこそ、司法への市民参加があるべきだとするのが、先進諸国の大勢であって裁判員制度がよいのか、陪審員制度にするべきなのか、という意見を戦わせるのは当然ですが、いずれにしろ裁判に市民が参加するのは、最終的には司法権力に市民がお墨付きを与えることそのものです。

司法権力は存在しないのですから、存在しないものに市民はお墨付きを与えてはならない、という意見であれば、まだ分かります。
しかしそれは、アナーキズムではないのでしょうか?

「裁判で真実が解明されるとは限らないが、市民が総出で真実と決めてしまう」

裁判とは、もともとそういうものですよ。
神の視点による真実に近づこうとすることは当然であっても、それはかなわないことである、という前提で成り立っているのが、近代の裁判制度です。
そして裁判では「事実認定」をするわけです。
これを「真実ではありませんから」とやっていたら、明らかに神学論争も同然の議論に陥ってしまいます。
どういう裁判像を考えるとこういう意見が出てくるのか?と考えた場合に「裁判とは神が決めるものであれば良い」ということなのかな?と思うのです。

結局、わたしには「裁判員制度はいらない!大運動」の主張は「神聖裁判」の要求以外には見えません。

ところが、日本ではしばしば「神のごときことを要求する」ことがあるように感じます。
その一つに「事故調査」があります。

事故調査において、刑事責任追及が優先されていますから、しばしば事故原因が隠されてしまうのですが、事故原因について詳細な情報を提供すると自分の刑事責任が重くなるというのでは、情報提供をするはずもないですよ。
これに対して「隠したから刑事責任」とやっていくわけですが、ここまで来ると事故原因の解明よりも刑事責任追及が主体になっています。

刑事責任追及が事故原因の解明には役立たない、というのはアメリカの航空機事故調査やボルボの自動車事故調査などの過程で明らかになっていることの一つです。日本がいまだに事故調査のシステムを確立できないのはなぜなのか?と考えてみますと、「事実認定は良くなくて、真実を見つけなければならない」に固執しているからではないでしょうか?

事故と対策を考えますと、「取りあえずの対策」でも許されるわけです。
そのための判断には「事実認定」が必要です。「事実認定で決めたから、対策はこうなる」という決定でよいのです。
これを「真実の追究」をやっていますと、そもそも時間が掛かりすぎて対策が遅れることもありますが、真実を追究する先は「こっちはまだ分からない部分だから」とドンドンと分からない方面に主眼が移ってしまいます。

「取りあえずの対策」とか言い出すと「それは真実に向き合っていない」などといった批判が出てきてしまいます。
分からないところに踏み込んでいきますから、分からないものの代表的なものである「個人の責任」に帰する意見は常に残ってしまって、けっかとして対策が「注意喚起」であったりします。

日本の中にある「神を畏る」という文化は美しいものだとは思いますが、社会で神を出し過ぎることの不具合は、第二次大戦での敗戦で学んだはずではないのでしょうか?
市民として、神に代わって責任を取る、という姿勢こそが必要なのではないのですか?

10月 3, 2009 at 10:06 午前 事故と社会, 裁判員裁判 |

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コメント

そうですね。「神聖裁判」という理想を追い求めると、現実の裁判は汚らしいものに見えてくるんでしょうね。そんなものに市民を巻き込むなという。

「赤紙」というのが象徴的ですが、「戦争」に「裁判」を例えているわけですから、「裁判制度反対」なのですね、「裁判員制度」というよりも。

投稿: zorori | 2009/10/04 7:05:35

zorori さん

>「赤紙」というのが象徴的ですが、「戦争」に「裁判」を例えているわけですから、
>「裁判制度反対」なのですね、「裁判員制度」というよりも。

そういうことになりますよね。

今どき、裁判反対というのは宗教家でも言わない事ですけどね。
この運動は弁護士が主体的に関わっていて、どう言うつもりなのか、聞いてみたいです。

投稿: 酔うぞ | 2009/10/04 8:48:58

題名を見て「んん?どういう事?」と思いましたが、記事内容を読んでタイトルの意味を理解できました。

裁判に関しては門外漢ですので、この様な丁寧な解説があるとありがたいです。

所で以下の点に付きまして、「食品の安全性」でも類似した事がありました。

>日本ではしばしば「神のごときことを要求する」ことがあるように感じます。
(中略)
>これを「真実の追究」をやっていますと、そもそも時間が掛かりすぎて対策が遅れることもありますが、真実を追究する先は「こっちはまだ分からない部分だから」とドンドンと分からない方面に主眼が移ってしまいます。

BSE問題に関して、食品安全委員会プリオン専門問題委員会において一部の委員(殆どは後に辞任)の「プリオンとBSEについて詳細が判らないのだから、米国からの輸入について『判断できない』」という主張は、現実問題としてありえない「神のごとき絶対の安全性」を求めていた様に思われます。

投稿: 我楽者 | 2009/10/04 10:10:02

我楽者さん

BSE問題は中西先生も論じていらっしゃいましたが、中西先生の「環境リスク学」の考え方は、「どちらが、より灰色か」を色々な方面からチェックすることしかできない、という理屈でなりたっていると理解しまた。

ところが、最近特に強くなってきたのではないのか?思われるのが「神ごとき判断」で、BSE問題や裁判問題の他にも、ヘンテコなエセ宗教問題なども「なぜ流行るのか?」を考えると、どうも世間が「わたしではなくて、神が決めることだ」「偉い先生が決めればよいのだ」といった、「自分以外がきめてくれ。それが正しい」といった論調が強すぎると感じています。

以前は、学歴とか会社の規模といった実社会上のモノサシが強く強調されたのですが、最近では神のような否定も修正出来ないような、モノサシを使うことが広まってきていると感じています。

わたしは、エントリーを書いているうちに最後に書いた「市民として、神に代わって責任を取る、という姿勢」というフレーズを思いついたのですが、これは強調したいです。

投稿: 酔うぞ | 2009/10/04 10:34:04

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