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2009.08.07

初めての裁判員裁判を終わって

サンケイ新聞より「裁判所、検察、弁護側…判決に安堵や不満

初の裁判員裁判を終え、かかわった裁判所、検察、弁護側は「充実した」「従来の裁判官の思考過程と同じ」などと感想を述べた。

裁判員と一緒に判決を出した秋葉康弘裁判長は「裁判員・補充裁判員の方々には、熱心に審理や評議に参加いただき、大変感謝しています。裁判官と裁判員とが一つになって裁判を行うという裁判員制度の目的にかなった、充実した裁判であったと考えています」とコメントを発表した。

東京地検の谷川恒太次席検事は「検察の主張、立証に裁判員の理解が得られた。初めての裁判員裁判を円滑に進行できた」と安堵(あんど)の表情。特別公判部長の青沼隆之検事は「よく討議された判決で、大変しっかりした内容。納得でき、感銘を受けた」と評価した。

一方、藤井勝吉被告の弁護人、伊達俊二弁護士ら弁護側が会見し、「判決に被告の言い分が認定されず不満」とした。

藤井被告も「(裁判員は)若い人が多かった。自分と同年代であれば、近隣住民との問題について少しは想像してもらえたのではないか」と語ったという。

伊達弁護士は「判決は従来の裁判官の思考過程と同じだと思った」と振り返った。

この弁護側の見解にはというよりも報道全体を通じて、裁判員裁判と従前の裁判と何が違うのか?となぜ違うのかについての解説記事がほぼ無いことに注目しています。

伊達弁護士は「判決は従来の裁判官の思考過程と同じだと思った」と振り返った。

藤井被告も「(裁判員は)若い人が多かった。自分と同年代であれば、近隣住民との問題について少しは想像してもらえたのではないか」と語ったという。

一方、藤井勝吉被告の弁護人、伊達俊二弁護士ら弁護側が会見し、「判決に被告の言い分が認定されず不満」とした。

というのだが、わたしには簡単に言えば「弁護方針失敗」の結果だと思う。

「裁判員制度・毎日新聞社説は?」に書いた通り日本の刑法では「犯意」によって罪重さから、罰状まで変わってしまいます。

弁護側は近隣トラブルの結果であると主張し、検察側は確信的な殺意の元の犯行、という主張でした。

この二つの主張をどちらを犯意として取り上げるのか?という観点で、検察側は実際に凶器を突き出して「ナイフを突きつけられたら(被害者は)どういう行動をしますか?」と述べたとのことです。
普通に考えると「逃げる」とか「後ずさりする」となるでしょう。

これに対して、被告の主張は「刺せるものなら刺してみろ」と反論した、というものでした。
そして正面から心臓の付近を刺しています。

この二つのどちらを真実であると見るのか?は、これは検察側のシナリオになるでしょう。

また、そもそも近隣トラブルがあったというのが法廷で争いの中核になった理由は、警察での被害者の息子が述べた調書に「母親は気が強くて・・・」という内容があったのですが、これが裁判員の質問で「調書に署名したことも覚えていない」と否定されてしまいました。

これらの点を考えると、近隣トラブルの結果であるとの主張で通用にすると考えた弁護側が従前の手法にとらわれた古い手法であり、警察での調書を裁判員にひっくり返されるとというのは予想外であったからの失敗でありましょう。

その上、救急車を呼ばない理由を「他の人が呼ぶと思った」「包丁では深く傷つけると思った」などと引き出して、総合的に被告の主張の信用性は低いとされたわけです。

ここで問題なのは、裁判員の素朴な疑問で裁判の方向が偏るのはリンチに繋がるのではないのか?という意見ですが、この点について論評している報道や解説記事はほぼありません。

わたしは、「裁判ではだれも神の視点を持ち得ない」という点に注意して考えるべきだと強く思います。
一言でいえば「裁判でも誤った結論はあり得る」です。
(それゆえに、わたしは死刑には反対です。ただし法律に従うという点で、死刑が刑罰として存在することは是認しています)

裁判は神の視点はないのだけれども、人の視点として蓋然性の高いものを選択するものであるから、社会とって一番良い裁判は全国民の参加による多数決でありましょう。
しかしながら、これではリンチでもあります。
誤解を恐れずにいえば、刑事裁判は社会が個人を罰するのだから、どこまで行っても「ある種のリンチ」であることに代わりは無いと考えています。

そう考えると、今回の判決が重めに出たのは、被告に対する素朴な反発が裁判員の中にあったの、逆の見方をすると弁護側が被告が社会的に強く非難されるであろうことを計算して、裁判員を説得する弁護に失敗した、と見るべきだと思います。

裁判員裁判の本質は市民感覚を判決に反映させることですから、判決のブレが大きくなって当然です。
裁判員裁判に反対あるいは批判する意見の中核は判決のブレを認めたくない、というところは大きいと思います。
しかしながら、それは「裁判官は神であれ」と言っているのに等しいわけで、それ自体があり得ない。
このために「市民感覚から遊離した判決」とか「裁判官の世間知らず」といった批判が2~30年続いていました。
裁判員裁判でも、陪審員裁判でも、あるいは裁判官を査定するような手法を採ったとしても、上記の批判の結果は「よりブレの大きな判決」にしかなりません。

一方で「市民感覚の判決」を求め、他方で「神の判断」を求めること自体が矛盾しています。
市民としてより真剣に社会と向き合うことが必須の時代になったことをよく示している考えます。

8月 7, 2009 at 08:53 午前 裁判員裁判 |

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