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2009.07.20

教育改革に関する社説から

日経新聞社説より「チェンジ!少子化 公立校の魅力高め教育不安をぬぐえ

子どもの教育にはたいへんなお金がかかる。こう思わない人はいないだろう。そうした不安が少子化の一因になっているのは間違いない。

国立人口問題研の出生動向基本調査(2005年)によると、夫婦が理想とする子どもの数は平均2.48人だが予定しているのは2.11人。実際にはもちろんさらに少ない。理想の数に達しない理由を聞くと、66%が「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」と答えている。

私立校や塾の負担重く

この背景には学力や「いじめ」問題などをめぐる公教育への不信がある。公教育が心もとないから早い時期から私学へ入れたり塾通いをさせたりせざるを得ない、しかしそのための出費が大きすぎて心配、という意識だ。それなら負担の小さい公立校の魅力を高め、不安をぬぐう方策を考えなければならない。

文部科学省の調査では、小学校から大学までに必要な教育費はすべて公立・国立なら約800万円だが、中学校から私立だと2倍にはね上がる。私立の中高一貫校は6年間で約700万円は必要だ。公立中学に通っていても学習塾の負担は重く、夏季講習なども含めると年間30万円以上もかかるケースが珍しくない。

それでも首都圏では中高一貫校に進む小学生が3割ほどに上り、東京では6割にも達する小学校がある。公立中学生で塾に通っているのは約7割、小学生も中学受験を目指す場合は大半の子どもが通塾する。

多くの親がこうした負担に耐えながらなお「脱・公教育」を目指すのは、それに見合う成果が期待できるからだ。たとえば東京大学合格者のうち6割ほどは中高一貫校の出身者が占める。こんな傾向が呼び水になってさらに私学に生徒が流れ、公立校は地盤沈下する。大都市圏を中心に、ふつうの公立高から有名大学に進みにくくなって久しい。

これでは所得が低い家庭の子どもは進学の道を制約され、意欲も失うことになる。東大大学院の調査では年収1000万円以上の家庭の子どもは大学進学率が6割を超えるのに400万円以下だと3割ほどだ。東大生の半数以上の家庭が年収950万円以上というデータもある。

こうした現実を踏まえれば、公教育の再生が少子化対策の重要な柱になるのは確かだろう。

そのひとつの方策はもちろん、教育への十分な公的支出によって教育条件を整え、教育環境の改善も進めることだ。少人数学級の実現から高校などの授業料減免、パソコンや電子黒板の配備まで財政措置が伴わなければ始まらない課題は多い。

経済協力開発機構(OECD)の調査では、国内総生産(GDP)に対する教育費の公的支出の比率は日本は主要28カ国中で最下位の3.4%だ。公私の負担割合も日本は家計の比重が大きい。厳しい財政事情の下とはいえ、こうした現状を放置しておくわけにはいくまい。

しかし肝心なのは教育の中身だ。公立校がそれぞれ魅力のある授業や課外活動を編み出していくことである。そのためには中央集権的な教育行政の見直しが必要となる。

戦後の教育行政は文科省が学習指導要領で細かなカリキュラムを定めて学校現場を拘束し、教科書検定を通してそれを補強し、教員の養成や登用も免許制度によって一元的に進めるといったやり方が続いてきた。地方の教育委員会は文科省の出先機関とも化している。

統制緩め現場に裁量を

こうしたシステムが均質な教育を保証してきた面はあるが、一方で地域や学校の創意工夫の余地を狭め、本来の魅力を奪っている。もっと地域や学校現場に裁量を与えたり、教員を積極的に外部から招いたりして風通しのよい公教育に転換する時期だ。受験学力一辺倒では困るが、私学や塾に見習う点も多いだろう。

地方ではすでに、中高だけでなく公立小中学校の一貫教育や公立高のテコ入れなど独自の試みも始まっている。公立校が教育環境と教育内容の両面で頼りがいのある存在に生まれ変われば、子どもの教育に余計な出費をする場面が少なくなり、教育不安はずっと小さくなるだろう。

もっとも、公教育離れの底流には「どんなに無理をしてでも有名大学へ」というブランド志向もある。それを支えているのは、企業などが人材採用にあたって出身校にばかり目を向ける現実にほかならない。

親の経済力によって子どもの将来が左右され、それが次の世代でも繰り返されていくとすれば社会は活力を失う。そんな傾向を断ち切るためにも企業は人材登用の尺度を見直していくべきだろう。それはまた、遠回りでも少子化を乗り越えるためのひとつの手立てとなるはずだ。

毎日新聞社説より「新職業教育校 既存の学校では無理か

新タイプの学校というなら明確な必要性と役割がいる。だが既存の学校だけではどうにもならないのか。

職業教育改革を検討している中央教育審議会は中間報告で、実践的な職業教育に特化した新たな学校制度案を提起した。今後各界の意見を踏まえて答申にまとめる。

こんな案だ。大学、短大、専門学校など既存制度の枠外の高等教育機関で、入学者は高校卒業者。修業年限は2~3年、もしくは4年以上。実験、実習など演習型授業が4~5割を占め、関連企業へのインターンシップ(就業体験)を義務づける。設置基準は大学、短大のそれを基本にするが、教員配置では専門職の実務経験者を重視する。

どんな分野か。ソフトウエア設計・開発、デジタルコンテンツの開発、バイオテクノロジーなどといくつかを例に挙げたが、もっと多岐にわたることを想定している。

中教審は昨年文部科学相の諮問を受け、若年無業者増加や早期離職の傾向に教育はどう対処すべきかを論議してきた。折しも大不況と雇用崩壊が若年労働市場を直撃し、問題はより深刻となった。一方、企業側は「人材育成に手が回らない」と即戦力性を求める傾向が強まっている。

今回の新学校案の背景には、現在の高校、大学などの教育では将来の職業やキャリア設計の意識が十分育たず、卒業後の職選択がマッチしていないという考え方がある。

高校では高度経済成長期に中堅人材を輩出した専門学科がかつての約40%から今は約25%に減少、進学を想定した普通科が70%を超える。また戦後の大学制度は教養・学問研究と職業人養成が混然とし、実践的な職業教育の考え方に乏しい。高校進学率が約97%、大学など高等教育進学率が約77%に達した今、適性や能力、目的意識の差異や多様性はつかみきれないという側面もある。

中教審も既存校の改善工夫を求めているが、できることは多くある。例えば「全入時代」で私立大学は半数が定員割れを起こす状況で、大学自らが人材教育や職業実践力育成の方針と実績を示さなければ生き残れない。国公立も例外ではない。

また普通科傾斜の高校教育については、大学入試の教科偏重をやめることで改善は可能だ。

職業教育特化の課程は従来の大学の設置趣旨や理念にもとり、国際的に通用するか心配、というのも当たるまい。専門実務者、つまり実社会のプロたちが大学教育に吹き込む新風をむしろ期待したい。

「今もこんなにたくさん、いろんな学校があるのに」。この素朴な疑問に、いろんな解決のヒントや可能性が潜んでいるのではないか。

たまたま今日は、二新聞社の社説が教育について書いていました。

何年か前に高校の必修科目履修偽装事件があって、たまたまそのころ理数離れが問題となり理科の時間を増やすことになりました。
そしたら理科の時間で地学を増やすという話が出てきて、その解説記事で各科目の時間配分には学会の勢力争いが反映していて、地学は勢力が弱いが巻き返す良いチャンスだと猛然とアピールしている。とのことでした。

確かに、何を教えるのかは重要な問題でそのために各学会がアピールするのは大いにけっこうなことだと思うのですが子どもたちに社会で必要な能力(職業能力など)を身につけさせるという本来の意味から外れてしまって「我が学会の勢力拡大」といった方向に自己目的化してしまう可能性は少なくないだろう。

社会人講師として、小中高で総合的学習の時間などでロボット作りなどを企画しているのですが、授業を企画してみて分かることは教科教育が極限まで研ぎ澄まされていると感じることです。

歴史(日本史と世界史)などでは一年間で先史時台から現代までを教えることが出来るようになっていますが、一年間とは35週であり週に1時限の授業では30時間以下で歴史を全部やってしまうなどです。

30時間が倍(週に2時限の授業)であっても、普通の労働時間に当てはめてみると、簡単に言えば一週間で全部をやる、ことに相当します。
これは教科書や教え方自体を高度に洗練しないと無理だし、試験としては「何年にどんな事件があった?」となってしまうのも仕方ないともなるでしょう。

これらが積み重なった結果、子どもたちの知識が極めて断片的になってしまい、応用力が身につかず、「聞いてないから知らない」といった問題解決にならない回答がまかり通ることに?がっていくのだと思います。

学校の先生方と話しても「試験の範囲を限定しなくても良い。範囲は教科書全部」とか「生徒が知っていること全部を使って回答すればよい」といった意見をお持ちの方は少なくありません。
また、試験範囲の明示が先生の言い訳に使われていることを非常に問題視する先生もいらっしゃいます。

しかし、現実はセンター試験において過去の問題を使用することは先日許されるようになったばかりです。
センター試験のたびに「どこそこの模擬テストに出ていた問題だ」などといった指摘がありますが、それの何が問題なのでしょうか?本来の試験の目的と一致していることなのでしょうか?

ペーパーテストでは分からないところで若者の能力が不足していると社会は指摘していて、それゆえにキャリアー教育の推進といった事になるのですが、下手をすると「キャリアー教育という教科を作る事」と解釈されている面もあるようで、こっちが問題です。

わたし自身は、センター試験や大学・高校の入試で科目ごとの試験では無くて、総合的な謎解きのような試験をする方が良いのではないのか?と思います。
実社会や大学後期での授業は待ちの姿勢ではダメで、自分がどう動くのかが重要なわけで、その能力を評価することが現在の学校教育には欠けていると思います。

7月 20, 2009 at 08:41 午前 教育問題各種 |

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コメント

日経の社説の方ですが、「公教育」の定義が間違っています(私学と塾を一緒くたにしている)。

教育基本法第6条・第8条や学校教育法第2条を読めば、明らかに私立学校も公教育に含まれます。

投稿: エディ | 2009/07/20 17:50:15

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