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2009.05.02

著作権を読ませない権利としたい文化人

町村先生の Matimulog 4月29日の記事に「google和解に日本評論社も参加」があります。
ということで、日本評論社で本を出したり、執筆分担したことのある人は、下記のページを見るとよい。
弊社刊行書籍の著作権者の皆様へ

この問題について、当社は次のように考えています。

Googleがすでにデジタル化作業を行なった書籍には、当社が刊行した書籍も1400点前後含まれているようです。現在その詳細を調査中ですが、当社としてはこの和解に参加するつもりでおります。

和解を拒否して蚊帳の外に出るよりも、全世界を巻き込んだネット社会化の中で、著者と出版社の立場、権利を守りつつ、ネット上の書籍の展開についても前向きに取り組んでいくためにも、和解に参加することが必要だと考えたためです。

なお、デジタル化された個別の書籍のデータを2011年4月5日までに申し出て削除させる、あるいは時期を問わず個別の書籍の本文表示利用を止めるよう申し出るという手段を取ることについては、できるかぎりそのようにしたいと考えています。

ということで、グーグルブックサーチから本文表示利用をさせない、またはデータを削除させるようにしたいということなのだが、ブックサーチでヒットした方が著者としても出版社としても得ではないか?
なぜ、削除させなければならないのか、よく分からないところである。

上記サイトにリンクされたエクセルファイルに、グーグルブックサーチでデジタル化されている日本評論社の本が一覧されているが、私が執筆に加わった本も含まれているではないか!

これにはわたしもコメントしていて

コメント

    ということで、グーグルブックサーチから本文表示利用をさせない、
    またはデータを削除させるようにしたいということなのだが、
    ブックサーチでヒットした方が著者としても出版社としても得ではないか?
    なぜ、削除させなければならないのか、よく分からないところである。

この部分が一番のナゾでして、突き詰めると「著作権」とは「読ませない権利」となるのかな?と考えたりして。

投稿: 酔うぞ | 2009/04/30 11:36

現実的な対応としても、

全く不思議ですよね。

でも法的には、おっしゃるとおり、「著作権」とは「コピーさせない権利」が基本ですので、それを大事にする余り、あちこち手を伸ばして、ついには読ませない権利と化してしまう傾向にあります。

こうやって自分たちの首を絞めていることを、一部の著作者は気付いておらず、気付いている著作者は流通事業者の権利保護追及で読まれる機会が損なわれることに苦々しい思いをしていることでしょう。

投稿: 町村 | 2009/04/30 13:03

なんてやり取りをしていました。そうしたら朝日新聞にこんな記事が「米グーグルへ怒りと危機感 詩人・谷川さんらが会見

インターネット検索最大手の米グーグルが進める書籍検索サービスについて、詩人の谷川俊太郎さん、作家の三木卓さんらが30日、東京都内で記者会見し、著作権侵害の恐れがあると危機感を訴えた。

谷川さんは「利用に応じてどれだけの著作権料が支払われるのかが不透明。グーグルはやり方が一方的で、グローバリズムのごうまんさを感じる」。
三木さんは「ネットは公共のものというイメージがあるが、ネット上でどう作品を扱うか決めもしないのは納得がいかない。一種の文化独裁だ」と怒りをあらわにした。

このサービスを巡っては、著作権侵害を訴える米国の作家らが起こした集団訴訟が和解で決着。
この効力が日本にも及ぶことになった。

これに対し、谷川さんら日本ビジュアル著作権協会に属する会員180人が和解集団からの離脱を通知した。
代理人の鈴木淳司・米カリフォルニア州弁護士は「和解すれば、なし崩し的に商業利用される恐れがある。ゼロベースで交渉したい」と述べた。

離脱通知の期限は当初、5月5日だったが、ニューヨーク連邦地裁は28日、申請期間を9月4日までに延長した。

一方、日本文芸家協会は会員らに意思確認の調査を行い、4月27日の時点で回答者の8割強に当たる2197人が「和解した上でグーグルの書籍データベースからの著作物の削除を望む」と回答している。(小山内伸)

どう考えても、ネットは情報の流通手段に過ぎないのだから、ネットによって文化の流通が促進されるのは文化独裁の逆だろう。

結局は

谷川さんは「利用に応じてどれだけの著作権料が支払われるのかが不透明。グーグルはやり方が一方的で、グローバリズムのごうまんさを感じる」。

という問題に過ぎないということになるが、これは「発信するだけ」の意見であって、需要家というか受け取る側の意見の反映ではない。

ましてや、文化が商業の範囲でしか成立し得ないという主張であるのなら、印刷機が発明されてから商業出版が成立したという事実からすれば、それ以前には文化は無かったということになる。

作家・文化人が先人に対してそこまで非礼な主張をして良いものか?
紫式部や清少納言を「素人の書いたものが当たったのだから、ブログ文化と同じだ」とでも言うのか?

町村先生は主に「商業的な側面」での「削除は損」とのご意見で、これは非常に分かりやすいが、わたしには「商業出版(報道)はネットよりも常に上位」という固定的な観念の方が、人類の文化というものに対して非礼な考え方であり、広い意味で文化を貶めていると感じています。

5月 2, 2009 at 11:13 午前 日記・コラム・つぶやき |

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