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2009.05.18

裁判員裁判が近づいてきた

サンケイ新聞より「【正論】筑波大学名誉教授、元最高検検事 土本武司

■裁判員で「官」の硬直化脱せよ

≪プロ判事に信頼おく歴史≫

裁判員制度の実施が21日に迫った。

2004年5月21日裁判員法が成立して以来5年近く経過したのに、国民世論の多くは同制度に冷淡であり、法律専門家からの批判論も絶えない。

そもそも我が国の精神土壌にはこういう制度になじみにくい要素がある。

例えば米国にあっては、西部開拓の過程で生まれた保安官(シェリフ)の発祥経緯に象徴されるように、同国の司法官は民衆の内側から自然発生的に誕生した。
そこにあっては、官憲の誠実さよりも民衆の情熱がものをいい、陪審制が定着しやすい。

これに対し、我が国の刑事司法は、“お奉行さま・与力・岡っ引き”の遥か以前から民衆の外側にあるものとして意識されてきた。
こういう国民は犯罪に対処するに当たって、自らの手で悪と対決しようという態度には出ず、司法官憲の真実にできるだけ近づこうとする熱意と誠実さに期待し、そこに自分たちの正義感情の満足を求めようとする。

問題の核心は「誰が裁判をするのに適しているか」、また「誰の裁判に信頼がおけるのか」である。

刑事裁判の目的は「真相の解明」にある(刑事訴訟法1条)。

米国では憲法上「同輩による裁判を受ける権利」を保障し、自分と同質で同じ感覚を持っている隣人が手続きを踏んで決めればよしとするが、そういう“スポーツ競技的訴訟”では日本国民は納得しない。

日本国民は唯一の真実を浮かび上がらせることを求めているのであり、それをなしうるプロとしての裁判官の仕事に信頼をおいてきたのである。
大正陪審法による陪審制が失敗した大きな理由が、国民が「仲間」から裁判されるよりも「プロ」から裁判される方を選んだことにあったことは否定できない。

≪死刑の判断と心理的負担≫

人の一生に影響をもたらす刑事裁判に “素人”が関与するのは負担が重過ぎるのではないかとの危惧(きぐ)感に対しては、「裁判員は裁判官でないから案ずることはない」という人がいる。

しかし裁判員は裁判官と並んで一人一票の評決権を持っており、事実認定・量刑ともにその一票の行使の仕方によって被告人の将来に重大な影響をもたらすのであるから、「官」でないことをもって負担が軽くなるものではない。

逆に、市民による裁判制度を貫くのであれば、控訴審にも裁判員制度を導入すべきであるし、一審無罪の判決に対しては検察官控訴を許さないとしなければ筋が通らない。

事実認定は裁判員の意見を尊重し、量刑は裁判官の意見を尊重すべきであるという見解があるが、私は逆だと思う。

「法令の解釈などむつかしいことは裁判官が行う」といっても、裁判員も行う義務のある事実認定は証拠法則を適用しつつ各証拠の証拠価値を判断しなければならず、かなり高度の専門的思惟(しい)を必要とする。

それに対し、量刑は当該事件の結論であるのみならず、その時代の国民の正義感の具体的発現であるから、一般市民の量刑感覚が尊重されるべきであり、それが裁判員制度の趣旨にも適う。

≪国民への情報開示徹底を≫

裁判員制度はこういう問題だらけの中でスタートしようとしているが、さまざまな問題の中で最も気になるのは、裁判員裁判の対象となる事件の中核となるのが「死刑・無期にあたる罪の事件」であるということである。

それは、このような重大事件が国民の関心も高く、社会的影響も大きいので裁判員裁判にふさわしいからだとされる。
しかし熟達した裁判官ですら逡巡(しゅんじゅん)する死刑判決を一般市民に冷静な判断によってすることを期待できるか。

裁判員Aが多数意見の一員として有罪・死刑意見に与(くみ)した場合もそうであるが、いわんやA自身は無罪説をとったのに過半数が有罪・死刑であった場合、その精神的負担は想像を絶するものがある。

対象事件は当初は一般市民になじみやすい中・小の事件を対象とし、徐々に重大事件を取り入れるという順序をとるべきであった。

また死刑判決だけは一審はもちろん、上訴審も全員一致制にすれば精神的負担もやわらげられよう。これらは法改正をまたなければならないので、3年目の見直しの際検討されるべきであろう。

ともあれ市民が死刑を直視しなければならない時代が到来した。

今まで秘密のベールに包まれていた死刑に関する情報-死刑確定囚の生活、刑場の仕組み、執行方法など-をプライバシーの侵害にわたらない限度において可能なかぎり国民に提供し、国民全体の死刑論議に資すべきだろう。

裁判員制度のメリットを十分に生かそう。

そのメリットとは一般社会との接触に乏しいこれまでの裁判官の硬直した考え方に裁判員の新鮮で一般市民としての感性を取り込み、国民にわかりやすい裁判にすることである。

これによって、専門家には見えなくなった事件の本質や全体像が素人なるがゆえに見抜けることが期待されるのである。
(つちもとたけし)

確かに問題が沢山あって、弁護士の反対意見は「こんな仕組みは崩壊する」といった感じのものが多いのですが、どうすれば裁判に市民が適切な形で参加できるのか、そのために裁判員制度はどうあるべきかの議論は最近では意外なほどありません。

そんな状況で、5月21日からは裁判員制度が始まり、すでに適応事件(5月21日以降に起訴になる事件)が数十件になっている、という報告もあります。
そのような状況で、この記事はなかなか広範囲に渡って意見が述べられていて、問題点を考える上で大いに参考になると思います。

5月 18, 2009 at 09:27 午前 裁判員裁判 |

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コメント

どんな制度も1回やってみたほうが良いと思います。
案ずるより産むが易しといいますし、
失敗したらそれを教訓にして前に進めばいいのです。

うだうだして時を無駄に費やす方が駄目だと思います。

投稿: なる | 2009/05/19 0:22:22

> 最近では意外なほどありません。
> そんな状況で、5月21日からは裁判員制度が始まり、

「意外」でもなんでもないと思います。
実際にどうなるか、様子を見るべき時期にきているから、
「いまは、論議する意味がない」のです。

今後は、「実際に試してみたらこうだった(こうなった)」を踏まえて、
「どう変えるべきか」あるいは「制度を廃止すべきか」を論じるべきです。

投稿: memo26 | 2009/05/21 0:01:22

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