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2008.06.27

教育関係者は直視せよ

「大学総長・強制猥褻で実刑」を書いたら途端に、イザにこんな記事がを見つけた「小5女児性的暴行の“事実”把握 中学、適切処置怠る?」

小学5年で11歳だった女子児童に対する強姦容疑などで茨城県行方市立北浦中学校教諭(38)=鉾田市札=が逮捕された事件で、同校が「性的暴行」の具体的な情報を早くから把握していたにもかかわらず、疑惑を否定する教諭を一方的に信じ、警察や児童相談所への通報など適切な処置を怠っていた疑いがあることが26日、分かった。

関係者によると、女児が当時通っていた小学校は、容疑者による性的暴行の噂が流れた昨年4月以降、女児の保護者や北浦中学校の職員らを同席させ、数回の話し合いを実施。
同中は、容疑者の逮捕容疑とほぼ同じ「性的暴行」の疑惑を把握しながら十分に調査することなく放置し、警察などへの通報を行わなかったという。

複数の関係者は「女児は性的暴行があった日付や内容を小学校に説明していた」と指摘。
「中学校は小学校からの情報で性的暴行の具体的な疑惑を把握していたし、会議も行っているはず」としている。

一方、同校は産経新聞の取材に対し、「小学校を含め、女児周辺に接触して聞き取りを行ったことは一切ない」と全面的に否定。

市教委も「『性的暴行』に繋がる具体的情報は把握していなかった。
『女児を車に乗せて一緒にいた』という情報をもとに事情聴取したが、容疑者が強く否定したため、(学校側も)信用してしまったようだ」などと説明している

市教委のこれまでの発表などによると、中学校は昨年4月以降、容疑者に何度も事情聴取。強く否定する容疑者の言葉を信じ、副担任として教壇に立たせ続けていた。

逮捕に関するニュースです。朝日新聞より「小5を強姦容疑、中学教諭を逮捕 茨城県警

小学校5年生だった女児(当時11)に性的暴行を加えたとして、茨城県警は23日、同県行方(なめがた)市立北浦中学校教諭(38)=同県鉾田市札=を強姦(ごうかん)と児童福祉法違反の疑いで逮捕した。「間違いありません」と容疑を認めているという。

行方署などによると、07年2月中旬、顔見知りの女児をドライブに誘い、同県神栖市内のホテルで性的暴行を加えた疑い。
今年5月、女児から相談を受けた人から行方署に通報があって発覚した。

容疑者は96年4月に教員採用された。北浦中には03年4月から勤務。
技術を教え、女子テニス部の副顧問も務めていた。一昨年、昨年と学級の担任だったが、現在は受け持っていない。

行方市の教育長や校長は23日午後6時から記者会見し、「大変申し訳ない。二度とこういうことが起きないよう、対応策を考えたい」と陳謝した。

23日早朝、校長の自宅に容疑者の両親から電話があり、容疑者が泣きながら「子どもに迷惑をかけ、申し訳ない」と話したという。

同容疑者は独身で、一緒に住む両親も小学校の校長を務めたことがあり、近所でも教育一家で知られていた。

同中学の女子テニス部の生徒は「熱血先生で、土日もないくらい部活の指導に熱心だった」。卒業生の一人は「いつも明るく笑っていて、授業では一人ひとり見回ってくれるいい先生だった」と話した。

事件そのものずいぶんひどい話だと思いますが、その後の展開には「関係者はどう考えているか?」と大いに疑問を感じます。

2007年2月事件を起こした
2007年4月ウワサが流れた
2007年4月以降被害児童の親と中学校は話し合いを行う
2008年5月警察に通報

にもかかわらず、

一方、同校は産経新聞の取材に対し、「小学校を含め、女児周辺に接触して聞き取りを行ったことは一切ない」と全面的に否定。

市教委も「『性的暴行』に繋がる具体的情報は把握していなかった。

『女児を車に乗せて一緒にいた』という情報をもとに事情聴取したが、容疑者が強く否定したため、(学校側も)信用してしまったようだ」などと説明している

などと言っているわけです。
「一切ない」なんて言うからこういう反撃を世間から食らうわけですが、2月の事件が4月にウワサになったということ自体が、事件の重大性を示しているわけで、それに対して「関わっていない」のごとき方向に引っ張った関係者の鈍感さは、地域社会を崩壊に向かわせるものです。

なんというか、視野狭窄に陥っているのではないでしょうか?

6月 27, 2008 at 07:22 午後 教育問題各種 | | コメント (0) | トラックバック (0)

大学総長・強制猥褻で実刑

FNNニュースより「東京福祉大学前総長わいせつ事件 前総長に懲役2年10カ月の実刑判決 東京地裁

女性職員ら5人に対して、わいせつな行為をした罪に問われている東京福祉大学の前総長に対して、東京地方裁判所は、懲役2年10カ月の実刑判決を言い渡した。

東京福祉大学の前総長(61)は、2005年以降、自分が経営する学校の女性職員ら5人を相次いで総長室などに呼び出し、胸を触るなどのわいせつな行為をしたとして、強制わいせつの罪に問われている。

27日の判決で、東京地裁は、「職場内での立場の違いにつけ込んだ性的な犯罪は、卑劣かつ悪質だ。教育者としてあるまじき犯行であり、執行猶予にすることは認められない」として、懲役2年10カ月の実刑を言い渡した。

判決を言い渡された中島被告は、うなだれた様子を見せていた。

いや~、実刑もなかなか厳しいと思いますが、その理由が「教育者としてあるまじき犯行であり、執行猶予にすることは認められない」というのは明快でよいですな。

実刑になっちゃいそうな、教師の起こした事件が最近数多く報道されていますが、刑事罰どころか職場での懲戒処分も異様に軽いのではないのか?と思っていましたから、「相場」に与える影響は少なくないかな?と思うところです。

教員が生徒に対してというのは、いわばスクールハラスメントとでも言うべきものでしょう。
その時点で、強く非難するべき事柄だと思いますね。
生徒が学校に在席するのは、中学高校では3年間です。こんな短期間に何かをしでかすというのは、結果の如何に関わらずそれだけで、教員という職に相応しいとは思えません。

6月 27, 2008 at 05:12 午後 事件と裁判 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.06.25

小学校の天窓から6年生が転落死・その4

「小学校の天窓から6年生が転落死・その3」の続きです。

サンケイ新聞より「都立高でも7年前に天窓転落事故

平成13年に都立富士高校(中野区)で当時3年生の男子生徒が校舎5階の天窓から転落死していたことがわかった。
都教育委員会は都立高校長会で注意喚起を行っていたが、小中学校区市町村教委には報告していなかった。

都教委によると、13年10月、男子生徒が友人と昼食の弁当を食べるため、入り口が施錠されていた5階屋上へ雨どいを伝って登った。
昼食後、男子生徒が幅約1・2メートルのガラスの天窓に乗ったところ、ガラスが割れて1階まで転落。
全身を強く打って約1カ月後に死亡した。
都教委は区市町村に未報告だったことについて「想定していない事故だった」と説明している。

杉並区の杉並第十小学校では18日、6年生の男子児童(12)が転落死。杉並署が学校側の安全管理に問題がなかったか、業務上過失致死容疑で捜査している。

なんか「想定していない事故」と言えば事故ではなくなるかのような印象ですが、杉並区議会の文教委員会で「児童転落死亡事故」に関する資料として、「区教委担当セクションから区議会文教委への報告書」を傍聴していた方からいただきました。

                                                 

                                                 平成20年6月23日

                                                              

                                                  センター

              区立小学校での児童転落事故について 

  区立杉並第十小学校(校長:宮山延敬、児童数387名)において、6年生男子児童が授業中に3階屋上にあるトップライト(明かり採り)から転落し、死亡する大変痛ましく重大な事故が発生しました。事故の概要と対応について報告します。 

1 概要

(1)児  童  ○○  君(酔うぞが修正) 12歳 (杉並区和田2丁目)

(2)発生日時  平成20年6月18日(水)午前9時25分頃

(3)事故の概要

    1時間目の6年生の算数の授業で、2学級を3グループに分けた少人数学習指導により、各自10歩程度の歩幅を計測し、その平均を出す授業が行われていた。そのうち1グループ(25名)が校舎3階の屋上を使用し、9時25分に学習を終えて教室に移動する際、ドーム型のトップライトに当該児童が乗り、強化プラスチックの覆いが割れ、1階コモンスペースの床に転落し、全身を強打した。

    9時27分、学校が救急車を要請し、児童は東京医科大学病院に搬送され、集中治療室にて治療を受けたが、症状が重く、1317分に死亡が確認された。

    事故直後、学校から警察に対し、事故の発生を通報した。事故の原因については、現在警察が調査中である。

    今回事故につながった当該校の屋上は、本来児童の利用を想定したものではなく、日常は施錠している。 

2 事故後の対応

       ○学校は、当日14時から全校集会を開催し、児童に事故の説明を行ない、集団下校の措置をとった。また、事故を目撃した児童に対して、済美教育センターが派遣したスクールカウンセラーにより、カウンセリングを行なった。

       ○16時から教育委員会室で記者会見を行い、教育長および校長が事故の概要等を説明した。

       ○1830分から、学校で臨時保護者会を開催し、教育委員会と学校が保護者に対して事故の説明を行なった。(約250名が参加)

       ○翌19日午前、全校集会を開催し、児童に対し事故の経過等を改めて説明した。

       ○同19日午前、臨時校長会を開催し、事故概要を説明するとともに、再発防止に向けた指導を行った。

       ○同19日午後、事故原因の究明等のため教育委員会内に事故調査委員会(事務局次長ほか5名)を設置した。 

3 教育委員会の対応

      (1)学校施設等の安全点検を行い、必要な対策を講じ、再発防止と安全管理の徹底に取組む。

          ○トップライトが設置されている13校について、①立入り禁止措置の徹底 ②安全点検の実施③強固な安全対策を講ずる。

          ○当面、屋上の利用を一時禁止し、早急に安全点検を行うとともに、必要な安全対策を講ずる。

          学校教職員の危機管理意識を改めて喚起し、学校施設全般及び教育活動全般について、安全面からの調査・点検を行うとともに、順次、必要な対策等を講ずる。

      (2)今後も一定期間スクールカウンセラーを3名体制で派遣し、当該校の児童の心のケア等を支援する。

      (3)事故調査委員会において、早急に原因の究明に取組み、再発防止等に役立てる。

赤字で示したところは、わたしが注目した箇所です。

  1. 本来児童の利用を想定したものではなく、日常は施錠している。
  2. 当面、屋上の利用を一時禁止し、早急に安全点検を行うとともに、必要な安全対策を講ずる。

なんかこれには、ヘンな印象を受けますね。
施錠していて、日常は使わない場所で事故が発生したら、最初に問題になるのは「立入」でしょう。「なぜ立ち入ったのか?」などですね。
これに対して「当面、屋上の利用を一時禁止し」とは普通に読めば「日常的に使用しているから、一時的に利用を禁止」でしょう。

慌てふためいているのは分かるとしても、これでは何をどうしようとしているのか分からない。
こんなところで混乱するような話なのでしょうか?

これこそが「想定していない事故」だとすると、杉並区も東京都も安全管理を任せることができるレベルにあるのか疑わしくなってきます。
ふじみ野市のプール吸い込み事件でも、管理者である、ふじみ野市教育委員会の職員が「責任を持って点検したとはとうてい言えない点検をしていた」ことが問題になり、刑事事件になりました。

その一方で、都立富士高校の事件では「雨樋を登って屋上に上がった」となっていますが、群馬県桐生市で起きた事件が紹介されています。
読売新聞より「天窓転落小5桐生で

京都杉並区の小学校で児童が屋上の天窓から転落して死亡する事故があったが、桐生市立相生小学校で今年1月、小学5年の女子児童が1階屋上の天窓から転落し、軽傷を負う事故があったことが20日、わかった。

同校によると、女子は1月31日午前、家庭科の授業の一環で3人の班で校舎2階の廊下の窓掃除をしていたが、女子1人が廊下外側部分の窓をふこうとして屋上部分に出て採光用の天窓に乗ったところ、編み目ガラスが割れて約4メートル下の1階多目的室の床に落下した。女子は左足や左手を打撲するけがをした。

Up

同校では、普段はこの屋上部分には出ないように児童に指導していたといい、神山晴夫校長は「学校は安全でなければならない所で、安全管理について注意すべきだった。現在は指導を徹底している」と話した。

また、杉並区の死亡事故を受け、みどり市は市内の小中学校にある天窓に落下防止のための網を設置する方針を決めた。全15校のうち、子どもが天窓の近くに行くことのできる学校は5校あるといい、これまでに落下事故はないという。

県教委は19日付で、全県立学校と市町村教委に、屋上の施錠や管理と、天窓に乗らないなど生徒の安全指導を徹底するよう呼びかける緊急の通知を出した。県教委によると、県内では、1997年11月に県立富岡東高校で女子生徒が採光窓から転落死する事故が起きて以来、天窓に関係する死亡事故などは起きていないという。

(2008年6月21日 読売新聞)

この写真で見ると「特に厳重に注意しなければ、簡単に乗ってしまうだろう」と思います。
わたしには、ここまで来ると「建築物として学校(公共機関というべきか)に相応しくないのでは?」とすら思ってしまいます。
特に、学校は生徒が清掃もするわけで、そのことを考えるとこれは無いだろう。

繰り返し出てきた「想定していない」とはいったい何のことなのでしょうかね?

6月 25, 2008 at 09:47 午後 教育問題各種 | | コメント (10) | トラックバック (0)

2008.06.22

小学校の天窓から6年生が転落死・その3

「続・小学校の天窓から6年生が転落死」にいただいたコメントで知った記事です。

日経新聞より「小6転落死、区が設計時に「3階屋上に児童入らず」と説明

東京都杉並区立杉並第十小学校で6年生の(12)が屋上の天窓から転落死した事故で、校舎設計時、杉並区と同小の担当者が「3階屋上に児童は立ち入らない」と説明したため、設計士が天窓の安全柵を設置しなかったことが19日、関係者の話でわかった。

同小は説明に反し、校舎が完成した 1986年当初から屋上を授業に使用して児童の立ち入りを続けたという。

設計士は「屋上に児童を入れるのなら、安全柵を設置したはず」と話しており、児童が立ち入らないことを条件に設計された屋上で20年以上も授業をしていた同小の安全管理体制が問われそうだ。

関係者によると、校舎の設計が話し合われた80年代前半、
杉並区と同小の担当者は設計士に
「3階屋上は普段鍵をかけるため児童が入らない」「屋上は使わない」と説明。
このため設計士は3階屋上の天窓を安全柵で囲ったり、天窓の下に防護ネットを設置したりしなかった。

大本の原因については、予想の範囲かなといった感想ですが、問題としては「なぜ設計段階の決定を無視して使い続けることが出来たのか?」でしょう。

この事故については、ネット上でも刑事責任の追及を誰に向けるのか?という話がいくつか出ていますが、今回明らかになった情報によれば刑事責任の追求で将来同種の事故を抑止することが出来るとも思えません。

いつも読んでいる「元検弁護士のつぶやき」さんでは、長い間医療訴訟関係の問題を取り上げていて、特に医師が医療の結果について刑事責任を問われることについての議論が深まっています。

その議論の一部に、事故調査のためには刑事免責や司法取引が有効ではないかという意見が出ています。
わたしは航空機事故の調査に代表されるように、刑事捜査優先では事故原因が解明できず、同種の事故を繰り返すことが多いという点で、事故についての刑事捜査の後回しあるいは免責や司法取引を真剣に考えるべきだと思っています。

今回の天窓からの転落事故の元々の原因が、記事の通りだとすると、校舎を企画した区側の担当者が決めた「屋上には立ち入らない事として設計した」という情報そのものが、伝えられなかった可能性が高いように考えます。

しかし、20年間も継続して使っているのですから、親子二代でこの屋上に上がったことがあるという人もいるような「公開された情報」でもあったはずです。
にもかかわらず「本来は立ち入っては行けない場所だ」と誰も気づかなかったのでしょうか?

地域における危険な情報の共有という観点では、完全に失敗ですね。
20年の間に「屋上に上がって大丈夫なのか?」といった問い合わせは何件かあったと思います。
それでも調べなかった。

こうなると、この事件の最大の問題点が「20年間も放置された情報共有の欠如」はなぜ起きたのか?という「原因解明」は非常に重要な意味を持ちますね。

強制力のある事故調査委員会がないと、警察以上の調査は無理なんですよね。
書類の押収などしてでも、原因調査をするべきだと思うのです。

6月 22, 2008 at 01:31 午後 教育問題各種 | | コメント (28) | トラックバック (0)

酒鬼薔薇世代と表現するのは良くないだろう

サンケイ新聞より「【秋葉原通り魔事件】「酒鬼薔薇」世代、教育のひずみ?

秋葉原の無差別殺傷事件で殺人容疑で再逮捕された派遣社員の容疑者(25)は、神戸連続児童殺傷事件の容疑者の元少年と同年齢の「酒鬼薔薇(さかきばら)世代」。 10年前、教育現場では神戸事件を受け、「心の教育」が問われながら、ナイフを使った少年の事件が相次ぎ、突然「キレる」子供の問題が深刻化した。
家庭や学校のしつけ・指導力低下が顕著になり、識者からは「挫折に弱い」「過保護」など、この世代が受けた教育の弊害を指摘する声もある。(鵜野光博)

■「実体験」希薄

「ヤンキー先生」の通称がある参院議員の義家弘介氏は、平成11年から務めた北星学園余市高校で、容疑者と同世代の生徒を受け持った。

「幼少期から『個人の自主性が大切』『校則はいけない』『詰め込みは悪』という教育にどっぷりとつかった世代」と振り返る。

昭和50年代に吹き荒れた校内暴力で管理教育や体罰が問題となり、反動から校則をなくそうという動きも出た時代。
埼玉県立所沢高校で平成9~10年、入学式ボイコットの騒ぎを起こした生徒も同じ世代だ。

学習内容を大幅削減した「ゆとり教育」の学習指導要領改定が行われたのもこの時期。
義家氏は「勉強ができる、できないは子供にとって切実な実体験。それが『できなくてもいい』という教師によってぼやかされ、努力の大切さという当たり前のことも教えられていなかった」という。

生まれた年に「ファミコン」が登場したこの世代。欠けている実体験を補うため、義家氏はイベントなどを生徒にやらせ、失敗を経験させるという教育を繰り返した。「みんな『何とかなる』と思っているが、現実は何ともならない。悔しがらせることで現実を教える教育を、高校でやらなければならなかった」

■「いい子」の虚像

「子供たちはなぜ暴力に走るのか」などの著書がある評論家の芹沢俊介氏は、容疑者が携帯電話サイトの掲示板に「親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り」「俺(おれ)が書いた作文とかは全部親の検閲が入ってたっけ」などと書き込んでいたことに注目する。

「小中学校で周りから高く評価されても、『それは自分じゃない』というギャップに苦しんだのだろう。教育熱心な家族の中で架空の『いい子』にされ、容疑者は存在論的に“殺された”のではないか」

芹沢氏は「それが仕事や人間関係でうまくいかないことに対する強い被害者感情の基になっている」と指摘。「被害者感情は、何かのきっかけがあれば即座に攻撃性に転化する。家庭と社会で2度殺された思いだったのではないか」

また、「プロ教師の会」を主宰する日本教育大学院大教授の河上亮一氏は「家族でも友人関係の中でもいいが、ありのままの自分を受け入れてくれるホームグラウンドがあるかどうかが重要だ」と話す。

「ホームグラウンドがあることを前提に、社会に出れば思うままにならないこともあることを、言い聞かせて育てる。容疑者にはホームグラウンドがなかったのでは」

■「自立」履き違え

平成10年1月、栃木県黒磯市(現那須塩原市)の中学校で、当時13歳の男子生徒が女性教師をナイフで刺殺し、翌月には東京・亀戸で、パトロール中の警官が15歳の少年にナイフで襲われた。「キレる少年」は社会問題に。これも容疑者らと同世代だ。

明星大教授の高橋史朗氏は、事件を起こした少年らに共通する点として「知能指数は低くないが、対人関係能力と自己制御能力という『心の知能指数』が低い」とし、「教科の基礎基本は考えても、人間として社会人としての基礎基本という観点が教育界から抜け落ちていた」と話す。

「自尊感情や他人の痛みが分かる心が育っていない。他と切り離された『個』の自立を重視し、他者とのつながりの中で生かされている自分を発見し、社会に参画する力を育てることをやってこなかった」

「勝ち組はみんな死んでしまえ」という容疑者の書き込みについて、河上氏は「いい大学を出て、一流企業に就職するのが幸せで『勝ち組』だという価値観が、若い人を追い詰めている」とみる。

「少子化で大学進学も容易になり、みんなが夢をみられる半面、成功できるのは相変わらず少数だけ。この現実がより厳しくのしかかるのが、容疑者の世代ではないか」と河上氏は話している。

問題は、この「世代」以後の教育が指摘されているような面について改善されているのかどうか?ということと、指摘されている望ましくない若者像は変化しているのか?だろう。

ここ数年、主に高校を中心に学校に出入りするようになって、実際には小学校から大学まで見ているし、訪問した学校の数も数十以上になっているから、普通の先生よりも学校の数だけは多いと言うほどの計算になってしまいます。
その経験と記事中の指摘を照らし合わせてみましょう。

失敗を経験させるという教育

わたし達が教えている授業では、ほとんど必ず出てくる考え方です。
ただ、失敗を経験させるだけではあまり生産的ではないし、そもそも「教育上有用な失敗」とは何か?であって、単に失敗しても良しとする、ではダメでしょう。

義家氏はイベントなどを生徒にやらせ、失敗を経験させるという教育を繰り返した。
「みんな『何とかなる』と思っているが、現実は何ともならない。
悔しがらせることで現実を教える教育を、高校でやらなければならなかった

これを実践しています。
このために、ロボットを作るところから始めて、チームでプログラムをどう作るのか議論し、相手の話が理解できない、自分の意見を理解させることができない、何事をやるのにも他人と協力した方が良い、幾らやってもキリがない。
といったことを経験させるようにしています。

この授業は高校生に実践していますが、評価は「いかに大人が期待する、どんどん発言し、ロボットを改造するような若者らしい積極性が出てくるか?」に置いています。

自分で作ったロボットやプログラムがライバルチームに勝ったり負けたり、全然違う考え方をするライバルがいることを知って、先ほどのチーム内で話が通じないことなどと合わせて「自分と他人の違いを知る」「自分と他人は違うのだから、コミュニケーションが必要だ」ということを実体験させています。

社会に出れば思うままにならないこともあることを、言い聞かせて育てる。

これは非常に重要だと思いますが、小学校から高校になっていくにしたがって、子どもたちから現実感が無くなっていくような印象を受けます。

最近の学校では、小学校から大学まで「キャリアー教育全盛」で学校内で「仕事についての勉強」は非常に多くやっているのだけれども、子どもたちが実際に仕事の場を見たり、大人から仕事の話を聞くといった事は、親など身近な大人からの情報が圧倒的に多いはずだと思います。
それを「学校の教育」で高度化していっても学校内で止まっていては「空想上の仕事の話」でしかないし、それ自体がどんどん現実離れを加速するという側面もあるでしょう。

社会に出るとどうにもならないことがある、と説明してそれを実践できる子どもなんて居ないと思うよ。
確かに事前に教育しておいて、社会で「何ともならない」問題にぶち当たったときに「あ、これが授業で聞いたことか」と思い出すかもしれないが、学校の教室で教育するよりも、社会に触れさせて体験させた方が、教育効果ははるかに高いだろうと思う。

この点に関しては、子どもたちが街の中で大人と接触することがほとんど無くなってしまった、そもそもお店がないから「お使い」が出来ない、駅のキップも券売機になっている。こういうところに問題の遠因はあるのだと思う。

社会に参画する力を育てることをやってこなかった

このような書き方をすると「社会」とカギ括弧付きになってしまうが、子どもたちの接する社会なのである。

たまたま学校には、多くの生徒がいて、40人を最大とするクラスで集団で授業を受けているから「学校生活=集団生活」であるかのように考えてしまうが、冷静に考えれば今の学校では集団を自然に作る機会はない。

生徒にとって学校での生活の基本は、学習だから集団で学ぶ学習は「グループ学習」となるだろう。
では通常の授業はグループ学習ではないのか?
考えてみると、通常の40人体制の授業では生徒に求められるのは「先生の話をよく聞け」であって生徒同士が話をするのは「雑談」であるし、試験の時に生徒同士が話せば「カンニング」になってしまう。
つまり、グループで意見交換するような場は、学校の中でも特殊な場合になる。

これは以前から、おそらくは近代教育制度が導入される以前から200年ぐらいは変わっていないのだろうと思う。
それなのに最近は「社会に参画する力の教育」という言葉に違和感を感じない方が問題だろう。

以前は、いわゆる社会教育の範疇で、社会との関わり合いを学んでいたわけですが、そういう機会が無くなってしまった。
昔から、家庭教育、社会教育、学校教育と並べるし、最近は「家庭教育が崩壊している」とする意見は多いのですが、わたしは「社会教育の消滅」の方が影響は大きいのではないか?と思っています。

学校が「社会に参画する力を育ててこなかった」というのは、昔は学校に要求されることではなかったものが、学校に積み上げられている、といった解釈が正しいのでしょう。

そういう意味では、果たして学校が引きうけることなのか、引きうけられることなのか、といった観点から整理するべきだと思います。

こんな風に、チェックしてみると「全然、世代の問題じゃない」と思うし、これからの若者の中に想像を絶するような犯罪行為をする者が出てこない、とも言えない。
何よりも、本当に上記でチェックしたことが、教育が問題のある若者を作り出したと関係づけられるのであれば、事態は今でも全く楽観できないと思うのです。

多くの人が「最近の高校生は幼稚だ」といった感想を述べます。若者は、生意気に背伸びして大人とやり合うくらいでちょうど良いのです。
そういう機会がない、といったところも問題でしょうし、学校教育が教科学習であり、教科単位の評価になってしまうから、どうしても総合的に学習するよりも教科単位でいわば縦割りで教科のつまみ食いのようなことになりがちです。
最近私が使っている言葉としては「レンガを積み上げている」と説明しています。

レンガ1個が高校の授業の単位だと考えます。
レンガを積み上げて家を造ろうとすると、レンガを闇雲に積み上げるのではなく、どういう積み方にするのかを考えながら積むべきなのですが、一方では「どれくらいの数のレンガを積んだか?」も現実の評価になります。

ここで、レンガの積み方をすっ飛ばして数だけ競うようなところがあるのが、受験競争です。
そして受験技術として、「レンガをいかに早く積むか」だけを教えているところもあるわけです。
結局のところ、家の作り方を無視する、という学習をしているわけで、これでは本末転倒になってしまいます。
大学受験などで、どんどんと受験科目が減っていることや、センター試験などに対して極めて細かい苦情があり、その対応のためにますます誤解の余地のない精密な試験にむかっている、こんなことで若者に社会に出るために必要な総合的な能力のレベルアップなんてのは出来ないし、第一受験の方向からは「社会性なんて知ったことではない」とやっていると言っても良いでしょう。

教科書を見てみると、驚嘆するべき精密で濃密な内容です。こういうモノを作ることが出来るのは、師範学校制度以来の100年の近代教育のノウハウと言ったところなのだと思いますが、やはりかなり特殊なことでもあることは、覚えておくべきです。
学校教育が、教育のすべてではないし、学校に全部を任せることも出来ない。その一方で、社会が子どもたちにとってはどんどん大変な環境になっている、と認識するべきです。

6月 22, 2008 at 01:20 午前 教育問題各種 | | コメント (0) | トラックバック (0)