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2008.09.01

学力問題と言えるのか?

サンケイ新聞より「【正論】精神科医・国際医療福祉大学教授 和田秀樹 どこまで落ちる大学生の学力

≪少子化がもたらす弊害≫

私たちはさまざまな形で、学力低下を論じてきたし、その甲斐(かい)があってか、学習指導要領もゆとり教育撤回の方向に向かうことになった。しかし、学力低下の誘因としてもう一つの大きな問題がある。それは、少子化である。

少子化そのものが学力低下の原因になっているわけではない。フィンランドなどは、子供が減ることで、生徒一人ひとりに行き届いた教育を行い、むしろ学力が向上している。だが日本の場合は、子供の数が減ることで、受験圧力が大幅に緩和されて、それが学力低下に直結する。

第2次ベビーブーム世代は1学年200万人以上いた。その際に、「15の春は泣かせるな」の掛け声とともに、公立高校が大増設された。その後の少子化で、現在は1学年が120万人程度になっているが、結果的に、びりのほうでも新設の公立高校の普通科に入れるようになった。

おそらくは、それが中学生のインセンティブを奪ったのだろう。各種調査で、中学生の4割以上が学校の外で全く勉強していないという結果がでている。

このような少子化による学力低下の影響が、さらに激しく出ているのが大学だといわれるようになってきた。

現実に、第2次ベビーブーム世代と比べて、1学年70万人も減っているのに、大学生の数は当時と比べ、4学年で60万人も増えている。要するに少子化にもかかわらず、大学側が定員を増やし続けたため、大学が大幅に広き門となってしまったのだ。

≪AO・推薦で入試変質≫

1998年に行われた京都大学の西村和雄教授と慶応大学の戸瀬信之教授による大学生の数学力調査で、早慶クラスの大学でも、数学を受験しない文系学生の2割が分数ができず、7割が2次方程式の解の公式を使う問題が解けないことが明らかになった。

しかし、昨今では、それとは質の違うレベルの学力低下が問題にされている。

日本語の読み書き能力の著しい低さ、英語の基本的文法知識の欠如、歴史や地理的知識の著しい欠如(坂本龍馬やゲーテすらも知らないなど)である。

現実に、大学の入学定員と志願者数がほぼ同数となり、大学の半分近くが定員割れとされる状態であるから、事実上、中位・下位校では無試験で大学に入学する。

そしてさらに新たな問題が最近になって浮上してきている。それは、AO入試(学力試験の代わりに書類審査、面接、小論文などで選抜)、推薦入学の激増である。

2000年に旧文部省が、私大の推薦入試の上限をこれまでの3割から5割に引き上げ、国立大学協会も2008年度入試から5割に引き上げている。それ以外にAO入試の実施校が激増しており、現在では私大入学者の1割近くを占める。帰国子女選抜や社会人選抜、そして付属校からの進学者を含めると、私大では、入学者のうち、一般入試で入学した学生の割合が半分を割り込んでいるのである。

建前上は、一発勝負の受験の弊害を排したり、多様な学生を集めるためのものだが、有効に機能しているとは思えない。推薦組、とくにAO入試組の低学力が、各大学で問題になっているのだ。

≪早急に「資格試験」導入を≫

現実には、中低位校では定員割れを少しでも避けるための学生確保に用いられ、上位校では、これを行うことで、一般入試の定員が減り、見かけ上の偏差値が上がるために学校の格を上げることに用いられている。

もともと、一般入試組が無試験同然になっている低位校以上に、上位校では、推薦入試、AO入試組と一般入試組の学力格差が問題になっているそうだ。

私の知る限りでも、早慶レベルの学校に、それより偏差値が10以上下の大学の付属校から成績不良で大学に上がれなかった生徒が推薦やAOで数人入学している。

基本的にAO入試というのは、アメリカで行われている試験制度を採り入れたものということになっているが、アメリカの場合は、SATと呼ばれる統一学力テストの点数も評価したうえでのセレクションが原則だ。ところが、日本では、推薦入学を文科省が11月まで認めていないので、その代わりになる。

そのため、秋に大学入学が決まった学生で自動車免許の教習所がいっぱいになるという。いちばん勉強するはずの高校3年生の秋以降がいちばん勉強しなくていい時期になっているのだ。

中教審や教育再生懇談会でも、この事態を認識して、高大接続テストの導入を検討しているそうだが、早急に大学入学の資格試験を作らないと大学教育のみならず、高校教育までが崩壊しかねない。(わだひでき)

和田秀樹氏は教育問題のオピニオンリーダーの一人です。この意見を読んでみると「何を言いたいのだ?」と感じます。
いわゆる「学力重視」は分かるのですが、記事中で指摘されている通り。

1998年に行われた京都大学の西村和雄教授と慶応大学の戸瀬信之教授による大学生の数学力調査で、早慶クラスの大学でも、数学を受験しない文系学生の2割が分数ができず、7割が2次方程式の解の公式を使う問題が解けないことが明らかになった。

しかし、昨今では、それとは質の違うレベルの学力低下が問題にされている。

日本語の読み書き能力の著しい低さ、英語の基本的文法知識の欠如、歴史や地理的知識の著しい欠如(坂本龍馬やゲーテすらも知らないなど)である。

といった問題があります。
しかし、和田氏のこの文章で「さっぱり意味不明」のところが、「しかし、昨今では、それとは質の違うレベルの学力低下が問題にされている。」の部分です。
分数のできない大学生と、日本語の読み書きの能力の著しい低下、を「質の違う問題」と考えることができるものなのか?

おそらくは、和田氏はゆとり教育を否定する立場から「生きる力」といったまとめ方ができないから、分けざるを得なかったのではないだろうか?
ゆとり教育批判は、かなりのところが批判されて仕方ないと思うが、教育は総合的に生きる力といったところ高めることが目的であることを否定はできないだろう。

ここらを「総合学習は学校教育ではない」として「学校教育とは学力向上である」「進学率の向上である」とやってきたのが、現在の大学進学率が増えた理由なのだから、学力向上派(?)としては「結構なことだ」と言わざるを得ないのだろう。

和田氏は意見ではなくて現状報告を述べたということかもしれないが、現実がバラバラになっていると指摘したのだから、対策は「どうやって統合するか」といういわば教育ビジョンとか長期政策の提言になるはずなのに、「資格試験の導入」と言い出した。

和田氏がはっきり書くべきなのは「資格試験で大学進学率を下げるべきだ」であろうと思う。
どう考えても「資格試験に切り替えるとどうなるのだ?」の回答は「現在の低学力大学生を排除する」だろう。それとも、資格試験で一生懸命勉強するから、底上げになるとでも言うのだろうか?

大学生の学力が低下すると、何が問題なのか?を和田氏はどうとらえているのだろうか?
問題は、学力低下ではないように思う。
人生にとって学力は誰にでも一律に影響するものではない。いわゆる、知的エリートとされる、学者・研究者といった人にとっては学力こそが第一の評価基準かもしれない。
しかし、店員などサービス業の第一線で必要とされるのは対人能力になる、今の学力検査には対人能力なんて無い。

これで分かる通り「学力ですべてを推し量る」こと自体が無理であって、わたしには現在の大学受験を頂点とする「学力での層別を過度に重視した結果」として、学力以外のところを教育していないことこそが問題であろうと強く思うのです。

このように考えてみると、今回の和田氏の主張が「何を主張しているのか分からない」理由が、学力問題について従前の「過度の重視」から抜け出せないのに、世間が変化してしまったから学力低下では論ずることができなくなった、という証明なのかもしれない。

9月 1, 2008 at 10:50 午前 教育問題各種 |

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コメント

>しかし、和田氏のこの文章で「さっぱり意味不明」のところが、「しかし、昨今では、それとは質の違うレベルの学力低下が問題にされている。」の部分です。

私も「質の違うレベルの学力低下」と感じれないのですけど。

>ゆとり教育批判は、かなりのところが批判されて仕方ないと思うが、教育は総合的に生きる力といったところ高めることが目的であることを否定はできないだろう。

う~ん、もっともなんですけど、「学校教育」「家庭での躾」「共同体で学ぶこと」などによる「教育」の目的かなあ、と思うのですが。

「学校教育を取り出した場合の目的」はそこに置かれるものなのか、というのは疑問を感じます。

>これで分かる通り「学力ですべてを推し量る」こと自体が無理であって、わたしには現在の大学受験を頂点とする「学力での層別を過度に重視した結果」として、学力以外のところを教育していないことこそが問題であろうと強く思うのです。

これも同意なところはあるのですが、上で書いたように教育というものは「学校教育」だけではないとも思うので、「学力以外のところの教育不足」は「学校教育だけの問題か?」とも思うのですが。

じゃあ「学校はどうあるべきか」という点についてはよく分かりません。
「学力不足」「学力以外のところの教育不足」という2つの問題に対して、片方を「学校以外のところの教育」でカバーしていくような形にしていくしかないのではないのか、と。

投稿: 北風 | 2008/09/01 23:29:06

和田氏のいわんとすることもわかるんですが、氏の経歴を鑑みるに、「今度は『資格試験』で儲けはる気ですかぁ?」と揶揄したくもなります。
また、結局大学に必要なのは入試だけだと言っているも同然の論調にも反発を覚えますね。企業採用が大学入試の結果しか見ていないも同然なこと、高校以下が大学入試に最適化せざるをえなくなっていることなど、大学入試におんぶにだっこの状況がまねいた事態というべきであり、和田氏はその恩恵で食ってきた、またその風潮を煽ってきた人間でしょう。
酔うぞさんのおっしゃる内容も含め、大学入試以外の要素が何も見えてない人がいくら教育を語ったところで空疎な議論にしかならない典型例だと思われます。しょせん和田秀樹、というのが正直な感想です。

投稿: やまき | 2008/09/02 13:05:01

ちょっと思いつきましたが。

>和田氏がはっきり書くべきなのは「資格試験で大学進学率を下げるべきだ」であろうと思う。

むしろ、「浪人期間をのばせ」じゃないでしょうか。受験産業にとって顧客が増えればそれでいいんでしょうから。資格試験で一発では通らないようにしても、あきらめて就職する人が増えない限りは、理屈上は進学率を下げなくてもいいはずです。

上はもちろんただのイヤミとして言ってますが、引用もとの記事がだんだん「勉強法」商売強化のためだけの発言に見えてきました。推薦やAOの批判についても、単に自分の収入につながらんから言ってるだけちゃうんかという気がしてなりません。いや、もちろん邪推なんですけども。

投稿: やまき | 2008/09/02 13:30:19

北風さん

    教育というものは「学校教育」だけではないとも思うので、
    「学力以外のところの教育不足」は「学校教育だけの問題か?」
    とも思うのですが。

いわゆる、家庭教育・社会教育・学校教育ということなのでしょうね。

わたしが現在のNPOにかかわって学校に行くようになって、5年目ですが、初期のころにNPOの先輩格の人が「われわれのことを先生と呼ばないでください」と子どもたちに話しかけました。
これは文句なく賛成なのですが、それに続いた一言に後から「それは違うだろう」と言ったものです。

「街の中にいる普通のオジサンだと思ってください」と続けたのです。
しかしわたしは「子どもたちにとって街の中でオジサンと話をする機会があるのか?」と考え、否定せざるを得ませんでした。

そもそも、今の子どもたちは「お使いに行く店がない」ですし、駅で切符を買うといったことも自動販売機が相手です。

わたしが子どものころは、工場街で育ったからよその工場をのぞき込んだりしていて、溶接の火花を見ないように注意されたりしていました。
しかし、今では工場の中は窓越しにすら見ることができません。

こんな事を考えると「街にいる普通のオジサン」では話が通じないよ、と考えたわけです。

こうして、社会教育の機会は激減したといって良いでしょう。
家庭教育を批判する声は大きいのですが、社会のルールといったものは社会でしかられて、それを家に持って帰って、親に説明され分かるといったことでしょう。

だから、社会教育 → 家庭教育 → 学校教育と「学力以外の教育」を押しつけてきた、のが現状でしょう。

わたしは「学校内に社会教育を持ちこまざるを得ない」と言いながら、学校に行っています。
ごく少数ではありますが、高校で町内ボランティアを積極的にやっているところも出てきています。
そういうところは、実は成績は中低位校なのです。上位校は社会人講師など呼ぶ時間的余裕も無いようです。


これはどういうことか?と考えてみると、学校教育 → 成績 → 統一学力テストのように総合の逆で、細分化した結果なのだと思います。
細分化するから隣の項目について「今やる事じゃない」「学校の問題ではない」と排除の論理になるのでしょう。

方法論は別として、細分化=排除といったことで総合的に何とかなるのか?が今の最大の課題だと思います。
和田氏の記事は「総合的には問題だ」としつつ、持論である「学力向上」を墨守する立場で書いたから、内容が分からなくなっているのだと思うのです。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/02 22:25:37

>どう考えても「資格試験に切り替えるとどうなるのだ?」の回答は「現在の低学力大学生を排除する」だろう。

 低学力大学生を排除すると同時に大学の数も減らすというのが正しいのでは。

>しかし、店員などサービス業の第一線で必要とされるのは対人能力になる、今の学力検査には対人能力なんて無い。

 大学で4年間も向いてない勉強を強制されたって、対人能力が上がるわけがないし。
 大学にとってはとんでもない冬の時代になるでしょうけど、世の中にとっては悪くないかもしれません。

投稿: apj | 2008/09/03 0:51:50

分数ができない文科に進学した大学生、の何が問題なのか?というのを「学力の低下だ」とするのには、すごく違和感があります。

では何がたりないのか?と言えば「社会常識」でしょうね。

社会常識を学力として計るために、資格試験制度が必要だ、という社会が想像しがたいのです。

社会常識の欠如については、ローマ時代の落書きにもあるとかですから、昔から大人は若者を嘆いていたのですが、現在の状況は昔よりも深刻なのではないか?と思います。

学校のデータとして、進学・就職・それ以外のようなのが出てきているので、もうちょっと何とかならないのか?と思うわけです。

単に試験の成績が悪くても、高校生ぐらいだとアルバイト先で高く評価されて、あらためて勉強し直してある程度の高級な仕事に就いていく子どもたちを見ています。

なんで資格試験といった、「フルイの数を増やす」ようなことを主張するのでしょうか?

そもそも試験制度の根本は、現在の社会への適合度を測るというところが基本原理でしょう。
いくらそれを厳密に、難しくしていっても科挙になるだけでしょう。

現在の社会体制に入って来る、若者を増やすことは当然の目標ではありますが、それが無理な人たちには、既存の社会システムを別のモノに変えてもらうために必要な「社会常識や教養」を身につけてもらうのが現実的で好ましいことでしょう。

どうやって実現するのかは別にして、少なくとも「フルイに掛ける」のではないはずです。
フルイを増やすのでは、考え方として正反対です。
何段ものフルイに掛けて、どうにも通らないのであれば「フルイに掛けないで何とかする方法を考える」のが本筋だと思います。

それは、いわゆる学校教育を見切ることになりますが、どこかにそういった分岐点があることは確実で、現状からかなり近いところに分岐点があるのではないでしょうか?

投稿: 酔うぞ | 2008/09/03 16:24:34

>分数ができない文科に進学した大学生、の何が問題なのか?というのを「学力の低下だ」とするのには、すごく違和感があります。
>では何がたりないのか?と言えば「社会常識」でしょうね。

ここは違和感を感じます。「分数ができない」のであれば問題は「社会常識の欠如」ではなく「計算ができない」こととしかならないのでは。

>社会常識を学力として計るために、資格試験制度が必要だ、という社会が想像しがたいのです。

まあ、国家公務員の一次試験とか、常識を計るような試験もないではないですが、通常、ある資格試験制度においては、「その資格に関連する・必要な知識・思考法」などを計るわけですから。「社会常識を学力として計る」ということの必要性が資格試験においてあまりないと思うので、私も想像しにくいですが。

>現在の社会体制に入って来る、若者を増やすことは当然の目標ではありますが、それが無理な人たちには、既存の社会システムを別のモノに変えてもらうために必要な「社会常識や教養」を身につけてもらうのが現実的で好ましいことでしょう。

「学校」にも種類や差別性があるのであって、全てが「学力中心主義」である必要もないでしょう。
多様性をどう持たせるか、というところでもあるのでしょう。


投稿: 北風 | 2008/09/03 21:34:31

>なんで資格試験といった、「フルイの数を増やす」ようなことを主張するのでしょうか?

そのままズバリ、フルイの数を増やしたい、そして商売の機会が増えてほしい、でしょう。
和田氏の理屈がすべて正しいとしても、センター試験でいけない理由がありません。新規に資格試験なるものをでっちあげる必要なんて全くないわけです。分数できない程度の人はセンター試験だって解けませんよ。フルイの数を増やす話がまず最初にあるのでないかぎり、とても不自然な論理展開です。

>どうやって実現するのかは別にして、少なくとも「フルイに掛ける」のではないはずです。

フルイの存在が教養を身につけるインセンティブになるはずだ、というのが和田氏の論法ですので、そこは(ある程度の前提を受け入れた上であれば)それほど破綻したことを言っているわけでもないと思います。特に和田氏のように、教育をすべて大学受験に集約して考えてしまう傾向の人にとっては、しごく当然の方法論に見えているでしょう。

実は、ある程度は和田氏にも理があると思っています。和田氏の言うような学力にせよここで言われているような社会常識にしろ、それを身につける場がないというより、それを身につけるインセンティブがないという要因の方が強いように見えます。和田氏はそのインセンティブを大学受験時にハードルを設けることにより与えようとするわけで、つっこみどころはあるにせよ明確といえば明確です。

試験に出ようが出るまいがそれぐらいは知ってろ、というのが最低限の教養というものだと思いますが、その「知ってろ」という圧力がかかってない結果が、常識や教養のない学生という現象につながってるのではないかと個人的には思っています。その圧力をどう回復するかが問題なわけですが、制度面からのアプローチをしようとすると、和田氏みたいな話が出てきてしまうでしょう。

投稿: やまき | 2008/09/04 22:01:41

書き忘れました。

酔うぞさんのおっしゃる社会教育についていえば、私には教養や常識を身につける場所というよりも、むしろ教養や常識が必要であると感じる/納得する場所なんだと思っています。そこから直接身につける知識は、実はわりと知れてるんではないかと。
インセンティブさえ回復されてしまえば、アルバイト先で評価された子のように、ある程度自力でのぼっていくわけです。

発散気味なんですが、何が言いたいかというと、社会常識や教養を「教える」とか「フルイにかける」という観点だけでみちゃうのはちょっと違うかなあ、むしろ本人のやる気を引き出す話なんと違うのかなあと思った、というだけです。

すみません。もうちょっと考えをまとめてから書くべきですね。

投稿: やまき | 2008/09/04 22:22:28

北風さん、やまきさん
お二人にほぼ共通の返事なので、まとめますm(_ _)m

仮にですが、昔は家庭教育、社会教育、学校教育がキチンと3分していたのだとすると、現在は社会教育はほぼ0に等しく、家庭教育は半分になった、という理解で良いかと思っています。

それでも、学校教育は変わらない。当然試験も変わらない。

そして現実に「分数が分からない大学生」が出てきたりするわけですが、この学生は学校の試験は通ってきているわけです。

そうなると、個人的な問題ではなく「教育の問題」としてみるならば「昔は分数の分からない学生は無かったよ」とはなりますが、そういう学生が登場した原因を昔からあまり変化していない学校教育に、ではなくて大幅に変化した社会教育と家庭教育に原因を求めて良いでしょう。

「分数ができない大学生問題」への対策は、学校教育を高める問題なのか?となります。
もちろんこんな学生は「常識の欠如」であり「これじゃ社会では使い物にならない」のは言うまでもないわけですが、それを許したのも「学校教育」であることに疑いはありません。

話はある意味では簡単で、学校教育は変わっていないのに、社会教育・家庭教育は激変した、そのために手分けしてやっていた教育方式が成立しなくなった。
その結果として「常識に欠ける若者が増えやすくなった」ところまでは間違えないでしょう。


じゃあ「資格試験」とは何をやるのでしょうか?

和田氏はこの点について細かく述べていませんが、全体の文脈も以前からの和田氏の立場から言っても「学力問題」であり「学校教育の強化」の延長に資格試験の必要性を述べていると思います。

これ、教育ではないですよね。
少なくとも「育てる」ではない。「社会常識に欠けているから社会に出ることを許さない」と言うほどの意味しかないでしょう。

「育てる」という観点からは、試験の前に勉強するのが当然で、常識をどうやって教育するのだろう?
どうやって教育するのか、を示さないで「試験すればよい」というのなら、それができる理由あるいは、なぜ試験で落とせるような生徒ができてくるのか、を検討しないわけにいかないでしょう。
まあ、情緒的というか別の言い方をすると「ヒステリー」とでも呼ぶしか無い「正論」です。


じゃあ現実に、そのしょうもない生徒の方はどうなんだ?となりますが、わたしが相手している生徒に共通しているのは、学年が進むにつれて知識がボロボロと欠落していて、最低限ができれば後はどうでも良い、というのが生徒も学校も共通した処世術になっています。

当然ですが応用力なんて皆無です。

現在のわれわれの身の回りで考えると、PCみたいなモノですよ。
「入力されていれば出てくる」ですね。

それが基本の価値観になっているから「教わっていない」は最高の(最低じゃない事に注意)教える側への反撃なのです。

つまりは「大ざっぱに言って常識の範囲」といったこと自体が通用しないのです。
いかに精密に深くやるかであって、当然分からないことの方が多い状態の若者を量産しているのが、高校までです。

大学に入るとさすがに、これではダメなので、一気にひっくり返るから、大卒の若者はあまりヘンに感じないわけで、高校生にはどうしたモノか?と思うところです。

ところで、常識が必要となるような、あるいは応用力を必要となるような、何かをやってみるといったことは、うまく誘導すると、一見やる気のない今の高校生も面白がってやりますよ。

「わかんない」「どこが分からない」「最初から全部」
というのが、今日相手した高校生との会話ですが、5分後には自分でいろいろと試していました。

試験を強化しても、この生徒は最初から白紙を出すでしょうね、ここらヘンを具体的にどうするのか?をわたしは見ているわけです。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/04 22:56:04

酔うぞさん、お返事ありがとうございます。

おっしゃることもわかるのですが、その手わけが機能していてもいなくても、やはり「分数のわからない大学生」がでるのは学校教育が主たる責任を負うべき問題ではないでしょうか。社会教育や家庭教育がどうあれ、基本事項も知らん奴を大学に入れるのはまちがっておる、という話はそれほどおかしくはないと思うのです。

試験を強化してもモチベーション向上にはならず、白旗があがっておしまいだろう、というのは多くの局面において正しいご指摘かと思います。ただ一方で、和田氏的な方法の効果がゼロかというと、それも違うと思っています。個別の事例ではたしかに白旗あげちゃうシーンが多かろうとは思いますが、だからといって、一足とびに試験強化を無意味とするのには飛躍があると思います。知識が最低限あればいいと敵が思うのなら、その最低限をひきあげてやれ、というのは、乱暴ではあってもひとつの策です。そこは正当に評価されるべきで、「そんなものが教育と言えるか」というのはあまりに抽象論にすぎると思います。

いい大学にはいきたいが、楽な道があるのならそれを行きたい、楽な道がないならしょうがないから勉強する、という層だってあると思います。もっと勉強してたかも知れない人が勉強せずに終わっている、という和田氏の分析にもある程度は正しい部分もあるでしょう。もちろんだからといって、「分数も坂本竜馬もゲーテも知らない」大学生問題が本当の意味でかたづくかというと微妙ですが。結局いろんな人がいるわけですが、具体的にどういう人がどの程度いるのか、どの部分が問題なのかをまず把握しないと議論は平行線でしょう。なにからなにまでトップダウンに見ちゃうのはいけませんが、現場をみすぎるのも同じぐらいの弊害がありえます。失礼ながら、酔うぞさんのご意見を拝見するかぎり、ちょっと現場視線に偏りすぎてないかなあという不安があります。

私は試験強化は決定的ではないにしろありうる方策の一つだと思っています。「資格試験」なるものを増やそうという安易かつ下心まるみえの提案には大反対ですが。

投稿: やまき | 2008/09/05 10:17:46

ここまでを見直してみるに、ちょっと私のほうで勘違いがあったかもしれません。

たとえば分数ができないとかいう話は、もともとの西村先生あたりの調査時点の感覚では、専門教育に必要な数学力がない学生が入ってきているのが問題、ということであって、社会常識とかいう話とは違っていたと思います。和田氏にしても、「それとは違う学力」とかなんとか言いながらも、言っているのはその路線でした。

酔うぞさんの視点としては、世の中学力だけではなかろう、という話(だろうと勝手に要約しました)なんですが、一方で、ここで話が錯綜するのを見てもわかるとおり、世の中で「常識」と思われている部分の多くに学力相当部分が含まれているのもまた事実なわけです。学力だけじゃないというのは学力ブラス何かが必要だという話だと思うのですが、だとするならば、学力が落ちているのは「生きる力」などと呼ばれるものにとっても決していいことではないはずです。

さらに言うならば、大学というのはどこまでいっても専門教育の場であるわけです。そこに専門教育を受ける能力のない学生が入ってきているというのはやはり大きな問題なわけで、そこを度外視されても困ります。

こういう意味において私も「学力重視」派の一人ではあるわけですが、学力だけでいいとは思っていません。ただ、学力向上策が教育の改善でないという論旨には納得できないと申し上げています。

投稿: やまき | 2008/09/05 10:59:36

しつこいようですみません。もうひとつ付け加えます。

>これ、教育ではないですよね。
>少なくとも「育てる」ではない。「社会常識に欠けているか
>ら社会に出ることを許さない」と言うほどの意味しかないでしょう。

これは違うと思います。

まずもって、和田氏は「社会常識」というほどの広がりのある視野で言っているわけではないだろう、あくまで基礎(というか初歩の)学力の話しかしていないだろう、というのが一点です。社会常識がこれだけでつくなどという主張は、和田氏といえどしないでしょう。単純に想定してないだけと思います(底が浅く、しょせん和田、と私がいうのはこの部分です)。

もうひとつは、「おまえらもちっと勉強しないと上のレベルにいけないぞ」というメッセージを出そうという話をしているわけで、決して単純に非適応者を追い出せという話をしているわけではないと思うのです。一定の高さのハードルを置くことによって向上を促すという方策は、教育の一手法でありうると思います。もちろんこれは相手を選びますので、一律導入という話には慎重であるべきです。

投稿: やまき | 2008/09/05 11:21:04

やまきさん、どもども(^^)/

    いい大学にはいきたいが、
    楽な道があるのならそれを行きたい、
    楽な道がないならしょうがないから勉強する、
    という層だってあると思います。

皆無と言い切ることはできませんが、こんな牧歌的な話ではないですよ。

極端な言い方をすると「志望大学に目標定めて勉強する」ということではないとも言えます。
受験勉強がスポーツのトレーニングと同じだと論評する方は大変に大勢居ます。

受検技術が極端に高度化して、良い成績を取るよりも、失敗しないことを優先した上で、正解数を増やすようにトレーニングするのが受検技術です。
だから高校生によく分かる(考えないで済む)目標を与えて書かせると、信じがたい速度で紙一枚を仕上げてきます。

これを「相談してまとめなさい」なんてやったら、全然できない。
ものすごい落差です。

勉強じゃなくて、受検技術の習得とするべきなんですよ。


わたしは別に「大学生が分数ができなくて良い」とか言っているのではなくて、和田氏の「資格試験にしろ」という意味と、その結果を考えているのです。

やまきさんからも、北風さんからも「常識の範囲だろう」という意見があって、わたしもそう思います。
そうであれば和田氏の主張する資格試験とは「常識の資格試験を実施しろ」なんですよね。
これはいったいどういう意味なのか?となります。

その上で、和田氏は「学力低下の例」として「分数のできない大学生」を示し、そういう大学生を作らないために「資格試験を実施しろ」といっているわけです。

だから、社会常識の範囲も学力試験の対象にするべきだ、とわたしは受け取りました。
つまり「分数だけの問題ではない」となります。


実際問題として高校生に接していると「もっと常識を鍛えろよ」という例には山ほど接しますが、それは高校生であり若者だからだとも思っています。
こういうものを「全部学力」というのか?と思うわけです。

もちろん、大学が高等教育の場として水準を維持するためには、入学定員の削減とか入学試験を難しくする、というのは当然というよりも現在は必要なことと言えるでしょう。

    まずもって、和田氏は「社会常識」というほどの広がりのある視野で
    言っているわけではないだろう、
    あくまで基礎(というか初歩の)学力の話しかしていないだろう、
    というのが一点です。
    社会常識がこれだけでつくなどという主張は、和田氏といえど
    しないでしょう。
    単純に想定してないだけと思います
    (底が浅く、しょせん和田、と私がいうのはこの部分です)。


はははは(^_^)
最後の一行は同意します。

が、突っ込みどころは容赦しません。
「常識と読み取れるところを資格試験で何とかなる」と新聞に意見を出したことについては、こういう読み方ができる、という主張をすることになります。


もう一つは、先に書いた「勉強」「受検」の乖離(かいり)ですよ。
ほとんどの人にとって「受検がうまく行く」=「勉強ができる」となっていますが、これはいろいろな意味で難しいです。

いろいろなところに影響していて、事件になったのが必修科目履修偽装事件ですね。
大学もAO入試の弊害を是正しようと動き出すようですし「学力低下」というの確かなように思いますが、社会にとって合理的な学力評価になっているのか?という疑念が強くなっているのです。
人類は、科挙とかラテン語の学習といった世の中が壊れるまで変更しない試験(勉強)の制度を続けた実績があるわけで、やはり「学力評価の意味」といったことも日常的に検証するべき事でしょう。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/05 15:00:20

複数の問題があるので、単一解はないですし、切り口が複数あるように感じます。

>大学もAO入試の弊害を是正しようと動き出すようですし「学力低下」というの確かなように思いますが、社会にとって合理的な学力評価になっているのか?という疑念が強くなっているのです。

別に「社会にとって」合理的である必要はないのではないでしょうか。
対象が「大学入学試験」なのであれば、「大学にとって」合理的な学力評価であればいいでしょうし。

「学力というもの」については、
>そしてさらに新たな問題が最近になって浮上してきている。それは、AO入試(学力試験の代わりに書類審査、面接、小論文などで選抜)、推薦入学の激増である。

とあるように、書類審査や面接・小論文など、狭い意味での「学力」評価でないものも和田氏は挙げているわけで。で、そういうもののメリットの部分はあるのかもしれないですが、デ
メリットとして、「分数ができない」は極端にしても、そういうレベルになると、受験技術うんぬんじゃなく、基礎学力というしかない部分にシワヨセがでていると。

>話はある意味では簡単で、学校教育は変わっていないのに、社会教育・家庭教育は激変した、そのために手分けしてやっていた教育方式が成立しなくなった。
その結果として「常識に欠ける若者が増えやすくなった」ところまでは間違えないでしょう。

う~ん、じゃあ、変わっていないところの「学校教育」のアウトプットは変わっていないのか、というと和田氏の言うところの「学力低下」となっている。
「学校内に社会教育を持ちこまざるを得ない」ならば、「学校教育」のところに「シワヨセ」がくるのであって、「そのシワヨセはどうするのだ?」という視点としてはありかと。
「その結果として「常識に欠ける若者が増えやすくなった」」ということと、学校教育での「シワヨセ」が一致しているとは限らず、その「シワヨセ」の見方として和田氏のような視点もありかとは思います。

本来的には、【そのために手分けしてやっていた教育方式が成立しなくなった。】のところの対策がいるのですが、そこの提言についてはよく分かりません。

>ところで、常識が必要となるような、あるいは応用力を必要となるような、何かをやってみるといったことは、うまく誘導すると、一見やる気のない今の高校生も面白がってやりますよ。

ここは、知識じゃない、「社会教育」の領分というか「実践」がモノをいう領域でしょう。
で、そういう「実践の場」を学校教育で教師にやらせるのは負担が大きいと思うので。

若い子と接する機会があって、ゲームなんかでも誘導すると今の子でも試行錯誤したり応用したりという点でも高い能力を示しますよ。
ただ、それを遊びの中ででも仲間うちでもいいのですが、誘導なしでできるのか、というところに、やや問題がある気はしますが、「実践」の経験の問題に帰着するようにも感じています。

投稿: 北風 | 2008/09/05 21:55:29

 横から失礼。
 和田氏の文章は、1文間違ったために全体がぐだぐだになっているように見えます。説明のために、元の文章に番号を振ります。

(1)>1998年に行われた京都大学の西村和雄教授と慶応大学の戸瀬信之教授による大学生の数学力調査で、早慶クラスの大学でも、数学を受験しない文系学生の2割が分数ができず、7割が2次方程式の解の公式を使う問題が解けないことが明らかになった。

(2)>しかし、昨今では、それとは質の違うレベルの学力低下が問題にされている。

(3)>日本語の読み書き能力の著しい低さ、英語の基本的文法知識の欠如、歴史や地理的知識の著しい欠如(坂本龍馬やゲーテすらも知らないなど)である。

 酔うぞさんの仰るとおり、(2)で、「質の違うレベルの学力低下」などというからワケがわからなくなった。ここは「違う科目でも学力低下」と書くのが、前後からみても正しいのではないかと。(1)の内容は、基本的な算数を理解していない、ということで、(3)の内容は、基本的な国語・英語・社会の知識を身に付けていない、ということですから。(1)と(3)は科目が違うだけです。
 1科目だけではなく全科目ができないことで、「質的に」違った学力低下になった、というところまで主張するなら、そのように書くべきだが、科目毎の惨状を並べただけでは、どこまでいっても、個別の科目における学力低下でしかない。

 で、小・中・高と、成績評価は、企業で言うなら粉飾決算をしているわけです。理解していない生徒を落第させずに進級させてしまっているからです。和田氏の主張は、私には、粉飾決算まみれの状況だから別途監査します、という、しごくまっとうな主張に見えます。

投稿: apj | 2008/09/06 14:23:37

apjさんの説明は分かりやすいですね。

>和田氏の主張は、私には、粉飾決算まみれの状況だから別途監査します、という、しごくまっとうな主張に見えます。

意図としてはそういうことと感じました。

以下は、投稿をうけて私の読んだ感想なんですけれど。(上の投稿の番号に付け足しさせて頂いています)

(4)現実に、大学の入学定員と志願者数がほぼ同数となり、大学の半分近くが定員割れとされる状態であるから、事実上、中位・下位校では無試験で大学に入学する。
そしてさらに新たな問題が最近になって浮上してきている。それは、AO入試(学力試験の代わりに書類審査、面接、小論文などで選抜)、推薦入学の激増である。

(1)と(3)は科目が違うだけなんですが、文系学生にとって、「大学が受験科目に設定していない教科」「そうではなく本来あるレベルに到達しているはずの教科」という違いはあって、そこを和田氏は問題視しているのかと。

必要な教科すらも(4)にあるように入試のチェック機能が働いていないこともあり「粉飾決算」だから、チェックする仕組みを作れ、ということなんでしょうね。

投稿: 北風 | 2008/09/07 9:52:12

基本的にはapjさんのおっしゃる内容のとおりであり、和田氏は(狭義の)学力からはずれた話はしていないと思います。「違う学力」の意味は、科目が違うというよりは、今までよりもっと初歩的な話がわかっちょらんという話なんだろうという気はしてますが。

その上で酔うぞさんにコメントいたします。

>「常識と読み取れるところを資格試験で何とかなる」と新聞に意見を出したことについては、こういう読み方ができる、という主張をすることになります。

でも、和田氏が「常識」という言葉でほのめかしている範囲は、しょせんは学力の範囲内におさまっているのです。酔うぞさんの想定するような「社会常識」と同じ範囲を指しているとはとても思えません。坂本竜馬だってゲーテだって、結局は教科書に載ってる程度の話なわけですよ。その範囲なら、資格試験でどうとでもなるでしょう。まあ資格試験でなくても、既存の枠組みをまともに運用するだけで済む話なんですが。

酔うぞさんのご見解はそれはそれで有意義ではあるのですが、和田氏に対する批判としては的を射ていないと思います。
和田氏の見解が社会常識や勉強への態度に及ばないことを批判するのはいいのですが、和田氏がほのめかしてすらいない、「資格試験で社会常識や勉強態度を身につけさせる」をいくら否定しても意味がありません。

投稿: やまき | 2008/09/08 17:11:29

>皆無と言い切ることはできませんが、こんな牧歌的な話ではないですよ。
>極端な言い方をすると「志望大学に目標定めて勉強する」ということではないとも言えます。
>受験勉強がスポーツのトレーニングと同じだと論評する方は大変に大勢居ます。

どうも行き違っているというか、「勉強」という言葉への酔うぞさんの思いが相当に強いんだろうと想像します。

「勉強」がまぎらわしければ「コストをかける」にしましょうか。「楽をする」という言葉もまぎらわしかったので、「効率面だけを重視してコストをかける」でどうでしょう。

和田氏は結局のところ、ある程度広く浅い知識もなくちゃならんのに、AO入試などで聞いてくるところだけに注力した結果か、大学が受け入れるときに本来もっているだろうと想定される範囲をまったく知らない学生が増えているというのを問題視しているわけです。apjさんのおっしゃる「粉飾決算」です。

高校生や学校が受験に最適化した結果であろうとほんとうに手を抜いた結果であろうと、すくなくとも和田氏は必要な部分を「さぼった」と解釈しているわけでしょうし、それをたとえば「資格試験」でなんとかしろといっているわけでしょう。それへの批判として、学力重視派うんぬんというのは的外れかと存じます。

投稿: やまき | 2008/09/08 17:24:13

apjさん、北風さん

    apjさんの説明は分かりやすいですね。
    
    和田氏の主張は、私には、粉飾決算まみれの状況だから
    別途監査します、という、しごくまっとうな主張に見えます。
    
    意図としてはそういうことと感じました。

う~ん・・・・・(意外というか、新鮮な感じ)


わたしは、和田氏の「分数ができない・・・」の部分は「違う科目でも学力低下」とは全く別の「近ごろの若者はバカである」という全面的な否定、と受け取りました。

だから「社会教育」まで話を広げないと、意味無いだろうと思うのです。

AO入試に代表される、入学試験の科目数の削減が問題だとはわたしも強く思うところです。
しかし、それは受験生の問題ではなくて、大学であり文科省が受験生を誘導した結果です。

しかも受検技術が高度化することによって「ムダなことをしないのが正しい」となるのは当然で、受検の観点では(試験に出そうもない)坂本龍馬やゲーテを知らない方が、正しい受験生のあり方だ、となるでしょう。
それでは、若者かバカ者ではないかとなりますが、それを要求しているのは今の受験制度です。

こんな事を考えると、

    小・中・高と、成績評価は、企業で言うなら粉飾決算をし
    ているわけです。理解していない生徒を落第させずに進級
    させてしまっているからです。
    和田氏の主張は、私には、粉飾決算まみれの状況だから別
    途監査します、という、しごくまっとうな主張に見えます。

とはとらえられないなあ。

むしろ、軍隊とか役所が仕様書を出して、それに沿った品物を納品したら「使い物にならない」と騒いでいる例を思い出します。
この例えで言うと和田氏の意見は「仕様書はとにかく(わたしの考えでは)こうするのが当然だろう」と、根拠無く吠えている、ということになってしまうのです・・・・。

仕様書が悪いのか、仕様書通りに作らないのが悪いのか、を検討するべきところなのに、そこをすっ飛ばしている、といった感じですね。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/09 10:11:30

やまきさん

    和田氏は結局のところ、
    ある程度広く浅い知識もなくちゃならんのに、
    AO入試などで聞いてくるところだけに注力した結果か、
    大学が受け入れるときに本来もっているだろうと想定される範囲を
    まったく知らない学生が増えているというのを問題視しているわけです。
    apjさんのおっしゃる「粉飾決算」です。
    
    高校生や学校が受験に最適化した結果であろうと
    ほんとうに手を抜いた結果であろうと、
    すくなくとも和田氏は必要な部分を「さぼった」と解釈している
    わけでしょうし、それをたとえば「資格試験」でなんとかしろ
    といっているわけでしょう。
    それへの批判として、学力重視派うんぬんというのは
    的外れかと存じます。

やまきさん、真剣にやまきさんのご意見に理解しがたいところがあるのですが、

AO入試などを作ったのは、大学や文科省に代表される大人の世界ですよね。
少なくとも受験生が作ったわけではない。
その受験体制にあわせて特化した「勉強」の結果として、「受験科目に無いけど、これは知っているべきだ」と非難することができるものなのでしょうか?

実際に、受験生の将来の成功まで保証できる審査(入学試験)はできるわけがないから、ある程度の学生の質にバラツキがあるのは当然で、和田氏も「バラツキの限界を超えている」ということで、「資格試験を導入」と言っているのだと思います。

そこについて、

    和田氏は必要な部分を「さぼった」と解釈しているわけでしょう

と言っても、それは試験をしないのだから、サボる方が受験生の正しいあり方だと、受験指導している側の問題でしょう。
現実に、公立高校で必修科目履修偽装が起こっているわけです。
「必修科目であるが、受検のためには勉強してはならない」と高校が指導したわけです。

ここは、ちょっと誤解されるかもしれませんが
「受検のためには勉強しない方が良い」という学校はたくさんあります。
わたしも直面しました。
生徒の出席を取らないで、教室から行方不明にしていました。

これは「さぼった」とは言えないでしょう。
積極的に勉強させない学校やあり、先生がいるわけです。

いったいこれで、和田氏はどういう世界観で「資格試験にすればよい」と言っているのか、分からないのです。

どう考えても、AO入試の廃止とか試験科目を増やすとか、センター試験の全科目受検の義務化と言ったものの後に、資格試験を実施するべきだ、になると思うのですよね。

ひょっとするとAO入試はそのまま、センター試験もそのまま、しかしそれでは「非常識な学生が入ってくるから、別途資格試験をするべきだ」と言うことなのかもしれません。
それでは試験を増やす、つまりは「業界の範囲の拡大」を狙っているのかな?とも思うわけです。

いずれにしろ、若者が社会に出るために必要な全般的な知識や技量・判断力といったものを、学校教育だけでなんとかできるわけはなく、その部分を担っていた社会教育が極めて劣化している、という現実との組み合わせを無視することはできない範囲の話題だと思います。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/09 10:37:38

まず私の意図ですが、和田氏の言っていることがダメダメであるというレベルにおいては酔うぞさんとの見解の相違はなく、あくまで批判のしかたが不当なんじゃないですかという指摘をしているとお考えください。

くりかえしになりますが、和田氏の言っているのはしょせん教科書に書いてある程度の「常識」をなんとかせいという話です。教科書に書いてあるにもかかわらず、受験制度のせいでそれを知らずに潜り抜けてくる奴がいるから、それを資格試験でひっかけろという以上の話は記事からは読み取れません。

それで充分でないとおっしゃるのはわかります。それで和田氏を批判するのであれば、教科書知識だけしか想定していないことを批判するべきであって、和田氏の発言を拡大解釈してまでいちゃもんをつけるのは不当だという話をしています。「資格試験」でもって「将来の成功まで保証する」なんて話は和田氏はしてませんよね。

新たにでてきた、受験にでないから勉強しない生徒を非難できるかというご質問に関しては、できる、とお答えします。受験があるからそれに最適反応するしか方法がない、というのは、失礼ながら、いくらなんでも子供を馬鹿にしすぎてませんか?学力以外の力を強調しておきながら、受験への最適反応しかできない生き物として生徒をとらえるのは、いくらなんでも矛盾しています。

大人が作った制度について受験生に責任がないのは事実です。でも、その制度に対する反応様式にまで受験生に責任がないとするのは行きすぎです。もちろん100%の責任をおしつけるのもやりすぎで、単位を出す・卒業させるといった節目で要件を満たしていることを確認し、受験生の偏りを補完するのが、本来であれば学校(今の文脈でいえば小中高ですが、社会に出るところまで見れば大学だって免れるものではありません)の最低限の責任でしょう。

もちろん、それにプラスして、将来生きていく、成功するための力をつけてやることも重要ですが、最低限のrequirementを満たさずにそっちに注力されても、という意見だってあるわけです。

受験生の責任が軽減されるとすれば、受験制度だけではなく、「粉飾決算」が常態化する小中高のシステムも話題にせざるをえません。現場は苦労してるんだ、という話もわからないではないですが、少し離れてみると、それって本当はどうなの?と思うような話があったりもするわけです。たとえば、ささいなテストの点数で可能性をつぶすようなものが教育と言えるかという議論はもっともなんですが、だからといって、そのまま卒業証書渡されましても困るのです。

もうひとつ、たぶん酔うぞさんと私との間で見解が違うものとしてあると思うのは、「学力以外の力」の在り方だと思うのですが、いかがでしょう?
私には、教科書程度の至極初歩的なこともわからない人に社会で成功する実力があるといわれてもピンときません。もちろん例外的にはいるでしょうが、じゃあみんなそうやって育てましょうねという話には決してならないでしょう。和田氏の言い分にある程度共感する人たちの発想としては、「学校で教わったことぐらいいくらなんでも知っててくれ」という程度の話なんです。何も、それより大事なものがないなんて思ってません。

>それでは試験を増やす、つまりは「業界の範囲の拡大」を狙っているのかな?とも思うわけです。

それはその通りでしょう。教科書知識だけに話を限定したとしても、「資格試験」は解としてあまりに不自然です。小中高での単位認定・卒業認定をまともに機能させるとか、センター試験の必須化とか、既存のシステムの運用をまともにしたり一部変えるだけでできるはずのことだし、それが運用できない体制で「資格試験」を追加したところで同じことが生じるだけなのは明白だからです。和田氏の職業・職歴を補助線としてひいてみたくなるのは当然のことです。

投稿: やまき | 2008/09/09 12:15:18

>「近ごろの若者はバカである」という全面的な否定、と受け取りました。

和田氏的には全面否定なんだと思いますよ。

これも繰り返しになりますが、和田氏の学校教育観は教科書知識の習得だけでほぼ満たされています。大学受験を主眼に置いた議論しかできないところにもそれは現れています。

その世界観を前提とすれば、「資格試験」は解たりえます。私がずっと言っている内容、そしておそらくはapjさんが「しごくまっとう」と評されたことも、結局はこの話です。

もちろんその世界観はあまりに狭いわけですが、その世界観を批判・否定するのであれば、今度はもはや「資格試験」は議論の対象にならないはずです。

解くべき問題(教育によりどのようなものを生徒に身につけさせるか)が変更(教科書に書いてある初歩的な知識を身につけさせろ→社会で成功できる人間にしろ)されたときに、解法(「資格試験」)がいかに新たな問題(社会でせいこうできる人間にしろ)の解になっていないかを論じてもはじまらないのです。

この問題変更はもっぱら酔うぞさんの側で起きていて、和田氏に責任があるようには思えません。私はそこを「不当だ」と申し上げています。

投稿: やまき | 2008/09/09 12:40:54

 この場合、

仕様書=指導要領
仕様書通りに製作=検定教科書の内容を習得させる

でしょう。だから、仕様書通りに出来てるかどうかのチェックを各段階でやって、出来てなければ習得できるように、先に進ませずにもっとケアしろ、ということになるのでは。

 各段階で指導要領に定められた内容が身に付いていることをきちんとチェックしていれば、大学入試をAOでやってもそんなに問題は起きないのではないかと。
 もともと、仕様書通りに製作していないことが常態となっていたところに、最終チェックまで怠ったからぐだぐだになったということではないかと思います。

投稿: apj | 2008/09/10 3:10:15

酔うぞ さま

やまき さんの回答とほぼ同じですが。

>わたしは、和田氏の「分数ができない・・・」の部分は「違う科目でも学力低下」とは全く別の「近ごろの若者はバカである」という全面的な否定、と受け取りました。

先に書いたように、「受験対象の教科も含む学力」が全面的にできていない=仕様書通りにできていない、ということだろうと。

>しかも受検技術が高度化することによって「ムダなことをしないのが正しい」となるのは当然で、受検の観点では(試験に出そうもない)坂本龍馬やゲーテを知らない方が、正しい受験生のあり方だ、となるでしょう。
それでは、若者かバカ者ではないかとなりますが、それを要求しているのは今の受験制度です。

「受験制度上、求められた「学力」」は水準通りであるがおかしい、ということであれば、仕様とおりではあるが、仕様がおかしくバカ者を製造している、ということになるでしょう。
和田氏はそこまで突っ込んでなくて、上のように、単に「仕様とおりでない」ということを言っているのではないかと思うのですが。

>仕様書が悪いのか、仕様書通りに作らないのが悪いのか、を検討するべきところなのに、そこをすっ飛ばしている、といった感じですね。

「仕様書通りに作られていない」という状態がある以上、何故できていないのかということを検討すべき、というのはもっともなんですが。
ここは確かに触れられていませんね。

例えでいえば、客先に不良品がでて、検査不十分だから検査を増やしたら、不良品がでる工程のままであれば、客先に不良品がでることをなくせても、不合格品の山が残るわけで。

で、低学力学生を排除し、大学を減らすべき、となるのか、いや工程改善してなんとかするべき、とされるのかは分かりません。

投稿: 北風 | 2008/09/10 7:29:56

入学願書だすときに添付する卒業見込証明書や成績証明書というのが、本来は品質保証書であるべきなんですよね。和田氏の文章みてると入試で品質保証をするのが筋と錯覚しているようにも見えます。
それらの証明書の形骸化に入試制度の影が落ちてないということはないと思いますが、それにしてもやはり各段階で踏ん張ってもらわないと立ちいかないし、入試制度がそうなっている以上こうするのが最適なんであってしかたがないなどと居直ってもらっても困ります。

投稿: やまき | 2008/09/10 9:56:45

あ~・・・・・
やまきさんの

    和田氏の文章みてると
    入試で品質保証をするのが筋
    と錯覚しているようにも見えます。

これですね!!

品質保証の基本である、買い手が了解するのが品質というのを無視して、検査方法だけを問題にしているんだ。

紀藤正樹弁護士にSYSOP向けの講演をお願いしたら「現在の法律が現実に合わない(著作権法の話でした)と思うのなら、違反して捕まればよい。それを繰り返すことで、法律は改正される」という、極めて法学の根本のような説明があって「なるほど」と思ったものです。

検査方法や、基準・規格といったものがどんどん変遷しているところを見ていた、わたしとしてはこんな「検査を厳重にすれば良いのだ!!」のような話が、今どき出てくるとは考えていなかった、ということですね。

しょうもない「正論」であるし、書き手でありますね。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/11 10:20:45

 学力に限って言えば、
>検査方法や、基準・規格といったものがどんどん変遷している
ということはありません。内容の取捨選択は行われていますが。
ですから、入試ではなくて各段階で検査するのが本来の姿でしょう。

投稿: apj | 2008/09/15 2:36:30

>ですから、入試ではなくて各段階で検査するのが本来の姿でしょう。

性善説だとそうなりますね。

しかし、検査とか基準というのは基本的に性悪説に基づいて開発するものですから、計測を専門にやった立場としては「ちゃんとやれば論」には賛成できないんですよ。

で、これが教育にどう現れているのか、についてはわたしは典型的なのが「必修科目履修偽装」だと考えます。

早い話が、必修科目は全教科を入試対象にする、とすれば、履修偽装なんて起きるはずがない。

一方で「検査しません」と宣言して「作る時にちゃんとやれ」というのは、無い物ねだりというか、出来ないに決まっていることの一つなんですね。

わたしは、試験問題の作り方だけで、かなりカバーできるとは思っています。
いわゆる応用問題といいますか、文章を読んで解釈して、書いていくといった問題ばかりにすると良いと思います。

少なくともいわゆる○×とか穴埋めといった、解き方ではない、考えは正しいが書き方がアウト、といった問題に傾斜するだけで、だいぶ話が変わるのではないか、と思っています。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/16 20:44:23

横レス失礼します。

>>ですから、入試ではなくて各段階で検査するのが本来の姿でしょう。
>性善説だとそうなりますね。

apj さんの先の投稿
>>だから、仕様書通りに出来てるかどうかのチェックを各段階でやって、出来てなければ習得できるように、先に進ませずにもっとケアしろ、ということになるのでは。各段階で指導要領に定められた内容が身に付いていることをきちんとチェックしていれば、大学入試をAOでやってもそんなに問題は起きないのではないかと。

からの流れですので、なんか認識がすれ違っておりませんか?

高校の各段階で習得できているかのチェックはどうなっているの?「単位を出す、あるいは、留年じゃない、とするのなら」ちゃんとチェックしてよ、「もし、単位を出す習得レベルでないことがチェックの結果明らかになった」のであればその段階でちゃんとケアしてよ、ということで、性善説うんぬんが絡む話でもないような。

>一方で「検査しません」と宣言して「作る時にちゃんとやれ」というのは、無い物ねだりというか、出来ないに決まっていることの一つなんですね。

 受け入れ側が検査しないとしても、製造側が基準通り作るのは、出来ないに決まっていることでもなんでもないと思うのですけど。

 「必修科目履修偽装」も、「科目を履修したと認める」ことに、なんらかのチェックが働いていない(メクラチェック)であることの一つではないですか?
 
 先の話もそうしたメクラチェックじゃなくて、「科目を履修したと認められる」基準についてちゃんとチェックして「履修した」として、ということでしょう。ちゃんとチェックしてケアしていたら、「分数ができない」というようなことにはならないでしょうと。


投稿: 北風 | 2008/09/17 7:32:48

北風さん

>受け入れ側が検査しないとしても、
>製造側が基準通り作るのは、
>出来ないに決まっていることでもなんでもない
>と思うのですけど。

検査とか規格といった立場からは、これは日本の太平洋戦争以前(1930年代)失敗そのものです。

工業規格というのものの、意味合いがまがりなりに整理されたのは、太平洋戦争中です。
それが企業活動などに浸透したのは、品質管理問題に直結した高度経済成長時代です。
それまでは世界の評価は「安かろう悪かろう」でした。

つまり、規格に基づいて製作し、検査するは一連のセットであって、規格に基づいているから検査しなくても大丈夫、というのは歴史的にも無いことなのですよ。

で、問題は「ちゃんと作れば」の部分がそのままであれば「検査しなくても大丈夫」と言うことではなくて、「検査しないのであれば、作らないところがあっても大丈夫」に話が転化してしまうところです。

必修科目履修偽装は「履修させない方が有効だ」と学校が決定しているわけで、「履修するまでもなく習得している」という意味ではないですよ。

「履修したのと同等の実力がある」という事ではないのです。
学校は必修科目の一部について「ムダだから積極的に排除した」なわけであって、その中に分数が入っていても不思議はない、とわたしは思うのです。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/17 9:35:59

>つまり、規格に基づいて製作し、検査するは一連のセットであって、規格に基づいているから検査しなくても大丈夫、というのは歴史的にも無いことなのですよ。

以前、話がすれ違っているように感じます。
【受け入れ側が検査しないとしても】と書いているのですが。大学と高校で、大学が受け入れ先ですね。

酔うぞ様が書いておられるのは、「製造工程の基準と工程内検査」あるいは「製品規格と出荷検査」はセットでというようなことでしょう?
外部(顧客)の受け入れ検査と製造の基準はセットでもなんでもなく、顧客が受け入れ検査しにからといって、製造がちゃんとつくらない、というのはない話ではないのでしょうか?

>で、問題は「ちゃんと作れば」の部分がそのままであれば「検査しなくても大丈夫」と言うことではなくて、「検査しないのであれば、作らないところがあっても大丈夫」に話が転化してしまうところです。

で、ここが問題で、「大学の受け入れ検査しないのであれば、高校でちゃんとしなくても大丈夫」というのは、顧客が受け入れ検査しないからといって、製造が自分の基準を守ったり検査をちゃんとしなかったりするということではないのでしょうか、ということなんですが。

>必修科目履修偽装は「履修させない方が有効だ」と学校が決定しているわけで、「履修するまでもなく習得している」という意味ではないですよ。
「履修したのと同等の実力がある」という事ではないのです。
>学校は必修科目の一部について「ムダだから積極的に排除した」なわけであって、その中に分数が入っていても不思議はない、とわたしは思うのです

ここがそういう点でおかしくて、「ムダだから積極的に排除した」ならそれでもいいと思うのですよ。
その結果は、当然ながら、「ある生徒がある教科を履修しなかった」、となるのですが。

学校が、「ある生徒がある教科を履修した」と認めるにあたって、なんらかの基準なり(出席日数とか)があるのではないでしょうか?
にも拘わらず、基準を満たしてない生徒を「履修した」と「偽装」するのは、基準や検査がメクラになっているとしかいいようがないのであって、それは受け入れ先(大学)がどうであれ、そういう「偽装」は製造の問題でしょうし、製造が基準通り作れ、という問題ではないのでしょうか?

投稿: 北風 | 2008/09/17 20:39:05

>つまり、規格に基づいて製作し、検査するは一連のセットであって、規格に基づいているから検査しなくても大丈夫、というのは歴史的にも無いことなのですよ。

 ところが今の教育は、歴史的にも無い状態が実現しているわけです。
それがために、検査しないから大丈夫というズルまで横行した。

 なお、高校生の受け入れ側は大学ではなく「社会」ですから、大学入試とは関係なく、高校卒業の基準を満たした学力があるかどうかを大学入試に関わらず検査するのは必要なことでは。
 このための検査のしくみを作ろうというのが和田氏の意見ではないですか。

投稿: apj | 2008/09/20 13:22:01

apjさん

>このための検査のしくみを作ろうというのが和田氏の意見ではないですか

>>中教審や教育再生懇談会でも、この事態を認識して、高大接続テストの導入を検討しているそうだが、早急に大学入学の資格試験を作らないと大学教育のみならず、高校教育までが崩壊しかねない。(わだひでき)
とあるので、和田氏の意見は、「大学入試に関わらず検査するしくみ」とは読めませんでした。
ですので、上記のようなコメントとしています。
 
>なお、高校生の受け入れ側は大学ではなく「社会」ですから、大学入試とは関係なく、高校卒業の基準を満たした学力があるかどうかを大学入試に関わらず検査するのは必要なことでは。

和田氏の意見どうこうを抜きにして、お書きになられていることは同意です。
 
ただ、酔うぞ さまとのやりとりでも行いましたが、「単位」や「履修」の認定の時点でやるべきことであって、そういう姿に戻すのがスジだとは思います。
「赤点」「補習」「留年」てもはや死語なんでしょうか?

投稿: | 2008/09/20 17:34:08

上コメント、モバイルから投稿したら、投稿者が記入されませんでした。本コメントともに、投稿者は北風です。

投稿: | 2008/09/20 17:35:58

    酔うぞ様が書いておられるのは、
    「製造工程の基準と工程内検査」あるいは「製品規格と出荷検査」は
    セットでというようなことでしょう?
    外部(顧客)の受け入れ検査と製造の基準はセットでもなんでもなく、
    顧客が受け入れ検査しにからといって、製造がちゃんとつくらない、
    というのはない話ではないのでしょうか?

その通りです。
「出荷側の規格を決めても、受け入れ側が検査しないと出荷側が規格通りに製造しなくなる」
という事実を示しただけです。

    学校が、「ある生徒がある教科を履修した」と認めるにあたって、
    なんらかの基準なり(出席日数とか)があるのではないでしょうか?
    にも拘わらず、基準を満たしてない生徒を「履修した」と
    「偽装」するのは、基準や検査がメクラになっているとしか
    いいようがないのであって、それは受け入れ先(大学)がどうであれ、
    そういう「偽装」は製造の問題でしょうし、製造が基準通り作れ、
    という問題ではないのでしょうか?

これも事実はその通りで、現実はもっとずっと悪質で、生徒用のカリキュラムというか時間割と履修計画が違っていたからばれたのでありました。

製造する側がここまでデタラメになると、製造基準を守っていない、としか言いようがないわけで、実際にもの作りなどビジネスの現場では間違えなく取引停止ですよ。
問題の高校に当てはめれば、過去にさかのぼって卒業資格の取り消しでしょう。

話を和田氏の「資格試験・・・」に戻すと、製造側を「信用しないから」となりますね、ならば実は「卒業資格」つまり製造側が規格を順守する必要がない、となると思うんですよね。

今でも、高校は単位不足で落第とかやっているわけで、それも信用ならないとなると、資格試験において「全高校(以前も含む)資格の検査」を必要とすることになりますが、それはいくら何でも社会的に許せないレベルの負担になるでしょう。
(極論を言えば、試験期間が一年間にわたるとか)

つまりは「資格試験という科目を増やすだけ」であるでしょうし、短作文で応用力を測れないか?とやってみたら「作文問題対策」学習ができちゃった。

これらを観察すると、

    製造が基準通り作れ、という問題ではないのでしょうか?

であることは疑いの余地がないのですが、それをどうやって確認するか?の問題であり、それは資格試験では、確認できず単に試験科目が増えるだけだろう、そしてその対策は今の受検技術としてすぐに開発されるだろう。
と考えるのです。

    このための検査のしくみを作ろうというのが和田氏の意見ではないですか。

和田氏は「資格試験にしろ」なんですね。
わたしは「試験科目を増やしても無意味」と思っていますが、検査の仕組みを作るのは当然だと思います。

    「赤点」「補習」「留年」てもはや死語なんでしょうか?

死語と言うより、実施不可能というべきでしょう。
授業時間の延長もできません。
だから進行が遅れても、時間が来ると打ち切らざるを得ない。


どうすれば、和田氏が取り上げているような「社会に入っていけないような非常識な若者を減らすことができるか」ですが、わたしは試験というか学習の細分化を減らすしか無いだろう、と思うのです。

例えば、数学・理科などを幾つにも分けていますが、生徒個人には全部を義務で良いと思うのです。
分けるから、生物の授業を取っていない医学部入学者が出てきたりする。


よく勉強している高校生は、経済学部志望だから数学を一生懸命やっています、と言いますよ。
こういう生徒もいる一方で、展望がない生徒はその時の授業をつまみ食いする(高校進学の時点で決まる要素も多い)しているから、卒業後にどっちに行くのか分からない。

これについても高校生に聞いて見ると「偏差値で行けるところに行く」なのですね。
もう、どこまで本人の希望とか、将来設計とかがあるのか無いのか、それ自体が分からなくなっています。

その一方で、授業担当の先生は「自分の授業だけ」に集中しているところが多く、そのためには応用力は後回しになっているのは仕方ないとも言えるわけです。

高校の業務上の目標設定は「進学率の向上」です。
このために、けっこう退学者が増えていて、ちょっと以前に言われていた「高校全入」でもないし、まして「全員卒業」ではない。
製造側の規格を通り抜けたけど「別の製品を作ってしまった」とでも言うべきなのでしょうか?
そういったことができてしまうのが、今の問題でしょう。

まさに「縦割り」そのものなのですね。
応用力に欠けるというのは「横ぐし」の問題でしょうから、科目を増やしてどうなるものとも思えないのです。

さらに、わたしが引きうけている「キャリアー教育」について、学校から「こんな職業について語れる講師を派遣してほしい」という書類を見ると「会社員」が無いのはまだしも、ほとんどが「サムライ(士)」ばかりです。
だから、現場から管理職になって、全く別の仕事に就く、という話のしようがない。

特に「サムライ」のできる人(講師)の方は専門家ゆえに、フリーとか自営の方が多くなってしまう、といったことになります。
半分が、会社員である社会を伝えることができません。

こういう世界(学校)から出てくる生徒に「常識を求める」こと自体に相当無理がありますよ。
そして和田氏は「常識だから、テストで分かる」だと思っているのかと思いますが、そもそも「常識がちがっているのだから、それでは分からない」というところは論じないわけです。

大学生だと、コロッと変わってしまうところが、今の事態の深刻さを表していると言えるでしょう。
だからと言って「大学で何とかなる」と思っているかどうか知りませんが、高校が社会にどういう生徒を送り出すか、とほとんど努力をしていない、あるいは実らない、現状はなんとかしないとダメですね。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/21 12:42:27

>その通りです。
>「出荷側の規格を決めても、受け入れ側が検査しないと出荷側が規格通りに製造しなくなる」という事実を示しただけです。

人は手抜きをするもんだ、ということで、下記は全然関係ないんですね、分かりました。
>>一方で「検査しません」と宣言して「作る時にちゃんとやれ」というのは、無い物ねだりというか、出来ないに決まっていることの一つなんですね。
>>検査とか規格といった立場からは、これは日本の太平洋戦争以前(1930年代)失敗そのものです。

一般消費者やスーパーが受け入れ検査しないからといって、メーカーがちゃんと作れといって出来ないに決まっているなんてことはないわけですから。
(不二家とか手抜きをするメーカーが出る、という事実はあるわけですが)
 
>これも事実はその通りで、現実はもっとずっと悪質で、生徒用のカリキュラムというか時間割と履修計画が違っていたからばれたのでありました。

こうなると検査しないからうんぬんじゃないですよね。計画通りにやってないというか計画自体を偽っているんですから。

>話を和田氏の「資格試験・・・」に戻すと、製造側を「信用しないから」となりますね、ならば実は「卒業資格」つまり製造側が規格を順守する必要がない、となると思うんですよね。

ここが何故そうなるのか分からないのですけどね。不二家でもなんでもいいんですが、製造側が信頼できない・信用しない、となっても、信頼回復目指すんなら、製造側が規格を遵守していくしかないんですよね。
それが、何故、「製造側が規格を順守する必要がない、となると思うんですよね。」となるのかよく分かりません。

>今でも、高校は単位不足で落第とかやっているわけで、(以下略)つまりは「資格試験という科目を増やすだけ」であるでしょうし、短作文で応用力を測れないか?とやってみたら「作文問題対策」学習ができちゃった。

ここもよく分からないのですが、「ある企業の出荷検査が信頼できない」となって、その企業が検査を増やします、とやっても、信頼できませんよね?
実際にそういうケースでは、第三者機関で検査させるんじゃないでしょうか?
和田氏の「資格試験」も、第三者機関による「検査」と考えた方が分かりやすいんじゃないでしょうか?

>それをどうやって確認するか?の問題であり、

いや、ここ、確認するか?の問題、じゃないですよね。
先に、基準と検査がセットである、とお書きになっておられましたが、それは異常があったときに対応するためじゃないですか?
「単位を与える」「履修したと認める」時点で、検査されて、不十分であれば、「そのままでは単位を与えない・履修したと認めない」(対策して改善すればその限りではない)としないと「製造が基準通り作る」なんてできないはずなんで。

>和田氏は「資格試験にしろ」なんですね。
わたしは「試験科目を増やしても無意味」と思っていますが、検査の仕組みを作るのは当然だと思います。

和田氏のところ、正確にいうなら、製造の検査の仕組みでもなんでもなくて、第三者の検査をさせよう、というだけのことなんですよね。
「製造とセットになった検査の仕組み」は和田氏はあげてなくて、これは高校が考えていかないといけないことでしょう。

>死語と言うより、実施不可能というべきでしょう。授業時間の延長もできません。
だから進行が遅れても、時間が来ると打ち切らざるを得ない。

検査うんぬんじゃなくて、工程にそもそも無理がある、ということですね。

>高校の業務上の目標設定は「進学率の向上」です。

あれ、そうなんですか?目標設定はそうなのかもしれませんね。
高校の業務というか、高校自体の目標は、生徒に、卒業に必要な科目を「履修させ」「単位を取得させる」こと。
履修させ、単位を取得させる、ということには最低限基準があるはずだから、高校を卒業した(=必要な科目を履修し単位を取得した)生徒は上の基準最低限の知識であったり学力を有しているはずである、ということになる。
ここの基本が実行されて、更に、進学率向上の話になるはずで。

>このために、けっこう退学者が増えていて、ちょっと以前に言われていた「高校全入」でもないし、まして「全員卒業」ではない。

とりあえず、退学者の話はおいておきましょう。
退学させずに卒業させる(させた)生徒に関して、上に書いたようなことができているのか、という話ですし。

投稿: 北風 | 2008/09/22 0:20:07

    一般消費者やスーパーが受け入れ検査しないからといって、
    メーカーがちゃんと作れといって出来ないに決まっている
    なんてことはないわけですから。
    (不二家とか手抜きをするメーカーが出る、という事実はあるわけですが)

これに近いのは、アメリカの自動車のビッグスリーに関する都市伝説でしょう。
わたしの専門の製造業の話ですが、アメリカの自動車メーカの敷地に隣接する川には、出荷検査不合格の自動車が大量に沈んでいる、というのがありました。
これは、中間検査による修正と完成検査による不合格では、どちらが製造コストが低いのか?という問題です。

短期的には、完成検査不合格の方が簡単だから安い。
では、中間検査をする方が合理的なのか?と説明を求められると、なかなか答えることが出来ません。

現実には、製造業的には中間検査と完成検査、受け入れ側の受け入れ検査はすぐに思いつくのですが、もう一つは市場の評価があるわけです。

「一般消費者やスーパーの受け入れ検査」ではなくて、「スーパー(販売側)の受け入れ検査と、市場(一般消費者)の評価は別のもの」でしょう。

この線で描いてみると、和田氏の見解は「市場評価が論外だから、受け入れ検査を厳重にしろ」ということでしょうね。
しかし、別のものだから的外れというか、受け入れ側いくら検査しても市場は評価しないかもしれない。

    ここが何故そうなるのか分からないのですけどね。
    不二家でもなんでもいいんですが、製造側が信頼できない・
    信用しない、となっても、信頼回復目指すんなら、
    製造側が規格を遵守していくしかないんですよね。
    それが、
    何故、「製造側が規格を順守する必要がない、となると思うんですよね。」
    となるのかよく分かりません。

製造側にとっては「市場が評価してくれるはずだ」と信頼を確保することと、受け入れ側が了解することのどちらを取るのか?となります。

製造側が受け入れ検査だけを見ていて、その先の市場の評価までは考えていないのは、普通のことです。
市場に直接接しているのは、販売側などであって販売側に納品している側はその先を見ていない。

だから「信頼回復」は受け入れる側(の担当者だけを見ている場合もある)に向いていることが非常に多いのです。
そこで、判断の順序が

    受け入れ検査の合格 → 受け入れ側の信頼 → 市場の受け入れ検査の合格 → 市場の信頼 → 規格の遵守

といった順序で優先度が低くなります。

「規格を遵守しているから、お客様の声を聞く理由はありません」なんて事はほぼ全く言えないのです。
だから、規格の遵守と受け入れ側の待望、市場の評価といったものをどうやってバランスを取るのか?という難しい問題になりますが、そういう仕組みは日本の文化ではあまり積極的に分析しないんですよね。
「常識だろう」で、済ませてしまう。

わたしのイメージでは、この部分は一直線というか、積み上げている。といった感じ。いわば一次元です。
メーカのコスト、受け入れ側のハードル、市場の評価、将来の展望といったものを同時に考慮するのは、平面的というか二次元的な見方でしょう。

しかし、日本では多くの場合に一次元的な「前がキチンとしていれば問題はない」という見方が強すぎて、すでに現実について行けないと言えるでしょう。
最近、行政が引き起こしてる問題の多くがこんなことに遠因があると思います。

そこで「とりあえず、目先の目標を突破できればよい」となって、完成品が出荷できればよい、規格外だってバレなければよい、となっていくのでしょう。

    実際にそういうケースでは、
    第三者機関で検査させるんじゃないでしょうか?
    和田氏の「資格試験」も、第三者機関による「検査」と考えた方が
    分かりやすいんじゃないでしょうか?

長々とおつき合いいただいて、大変に感謝するところです。
ここが、ずれているのが大きいですね。
上記の「別の検査機関」というのは、アメリカの製造業で失敗したところです。
それでわたしは賛成できないところなのです。

多くの検査で確実にチェックできるのは「量の検査」であって「質の検査」はかなり問題があります。
もちろん「質を数値で表す」と「量の検査」に変換できるのですが、それでも質全体をうまく数値で表すのは難しいので、完全には出来ません。

だからこそ「常識だ」といった事が出てくるわけですね。
要するに「常識とは量で測れるものを指すのか?」でしょう。「量で量ることが出来ないから常識という」と言うのもありそうですね。
それだと「常識は検査では調べられない」のかもしれません。
わたしには、こんな印象ですねぇ。


    >高校の業務上の目標設定は「進学率の向上」です。
    
    あれ、そうなんですか?目標設定はそうなのかもしれませんね。
    高校の業務というか、高校自体の目標は、
    生徒に、卒業に必要な科目を「履修させ」「単位を取得させる」こと。
    履修させ、単位を取得させる、ということには最低限基準があるはず
    だから、高校を卒業した(=必要な科目を履修し単位を取得した)
    生徒は上の基準最低限の知識であったり学力を有しているはずである、
    ということになる。
    ここの基本が実行されて、更に、進学率向上の話になるはずで。

ここは、いわば「本音とタテマエ」をゴッチャにしていると感じます。
教育委員会からの指示は、いちいち「必要科目履修させ・・・」なんて言ってくるわけがないことはお分かりいただけるでしょう。
当然の目標ですから。この部分が「タテマエ」ですね。

「業務上の目標設定」と書いたのは、毎年の教育委員会からの目標の提示が「進学率の向上」なのです。
当然「キチンと履修させた上での進学率向上」であるはずですが、それを「進学率向上のために、必修科目をすっ飛ばした」のが必修科目履修偽装事件です。

本音の前にはタテマエは無力であったですね。
わたしも「全部の高校の進学率が向上することに意味があるのか?」と強く思いますよ。
しかし、高校の管理者は進学率向上で評価される面が強いようです。(どの程度の強さかはよくわからない)


これは全体として何なんだろう?とは思うのですが、堺屋太一氏の主張に「団地の問題」というのがありました。
彼は日本を最適工業社会にした、としていて団地についても同じ事だと言っていました。

団地とは住宅団地だけではなく、工業団地、商業地区といった機能別に特化した地域のことである、としています。

団地化すると、住宅団地では交通の便とか住宅環境の維持、工業団地では騒音問題や公害処理といった問題の解決が簡単になるのですが、数十年を経た今では世代交代のために、それぞれの団地の経年劣化とでも言うべき状況になってきています。

社会を長期的に健全に保つためには、住宅地域と工業地域の過度の分離は良くないのかもしれません。もっと身近な事で言えば、巨大商店街は24時間の歓楽地となり、住宅街に歩いていけるところに店がないのが良いことなのか?といったところでしょうか?

団地化は社会を細かく分けることで、コスト削減を目指したものでしょう。
その「細分化による管理コストの削減手法」はあらゆるところに使えるものだから、日本中に蔓延しているのですが、ついつい「そこだけ出来れば他の部分は無視」にもなるわけで、わたしには「細かいところをいくら積み上げても、全体として正しくはならない」ように思えます。


和田氏が「常識に欠ける若者は問題だ」というのはその通りなのですが、その解決策は資格試験であろうが、常識科目の新設であろうが、現在の教育・受験制度の手直しではどうにもならない、と考えています。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/22 10:19:20

酔うぞ さまと私で決定的にずれているのは、教育の実情についての、検査とモノつくりの部分の因果関係といったらいいのか、例えば下記のような点ではないでしょうか?
 
>>「赤点」「補習」「留年」てもはや死語なんでしょうか?
>死語と言うより、実施不可能というべきでしょう。
授業時間の延長もできません。だから進行が遅れても、時間が来ると打ち切らざるを得ない。

 「赤点」だと分かっても対応できない。
 「モノをちゃんと作る」ということは、基準を満たさないモノは次工程に送らないというか、ちゃんとできていないものはハネる・手直しする、ということでもあるのですが、それができない。
 検査をしようが受け入れ側から要求しようが「製造側が対応できない」のでしょう?検査をしないからちゃんとモノつくりしないのではなく、ちゃんとモノつくりできない現状があるから、検査をしても無駄ということや受け入れ側の要求にも対応できないということになっているのではないでしょうか?
 
>この線で描いてみると、和田氏の見解は「市場評価が論外だから、受け入れ検査を厳重にしろ」ということでしょうね。

 エントリにあげられた記事の和田氏の見解に市場評価(社会的な評価)の視点は読めませんがそれは置くとして、上のような現状では、「受け入れ側で選別してよ」というしかないのではないでしょうか?
 
 
 レスについてですが、そこまで複雑な話ではないはずなんですが、製造現場的な問題とターゲットの問題をゴッチャにしていませんか?
「モノがちゃんと作れない」という問題を、マーケティング的なターゲットの問題と絡めると話がおかしくなります。

>製造側にとっては(省略)。
そこで、判断の順序が、
    受け入れ検査の合格 → 受け入れ側の信頼 → 市場の受け入れ検査の合格 → 市場の信頼 → 規格の遵守
といった順序で優先度が低くなります。(省略)そういう仕組みは日本の文化ではあまり積極的に分析しないんですよね。

 上は、製品マーケティング的な話ですね。
製造については、当然ですが、お客様の声、例えば、「もっと強度の高いものが欲しい」という声があるからといって、組成を規格・手順から勝手に変更してはいけないです。「モノをちゃんと作る」ということに対しては、規格の遵守が最優先以外になりません。
 一方、製品がお客の欲しいもの、ニーズにあっていない(規格を遵守して作っても)というのは、ターゲットの問題であって、「我が社の規格ではこうやっているんだ」とやってもあまり意味がないですね。
 この場合は、お得意さまの声(受け入れ検査基準)、市場の声(市場のニーズ)を反映することになります。新製品を開発(その規格はお得意さまや市場の声を反映したものになっている)、規格・基準の見直し(品質基準を厳しくする)とかですね。ただ、そうして見直しされた規格について、製造では遵守することになります。

>そこで「とりあえず、目先の目標を突破できればよい」となって、完成品が出荷できればよい、規格外だってバレなければよい、となっていくのでしょう。

上記は非常に唐突で前の文を読んでもよく分からないのですが。
「受け入れ検査」や「市場の評価」を優先させた結果でもないですし、「規格の遵守」の結果でもない。
 先に「手抜き」と書きましたが、こんなものは、製造側が客も製品も何処も見ていない結果であって、受け入れ検査だの市場の評価だのという話でもなんでもないですが。
 あえて言えば、冒頭に書いたように「製造側が対応できない」苦しい状況にある、ということでしょう。そうであるのなら、問題の核心はそれなんですが。

>上記の「別の検査機関」というのは、アメリカの製造業で失敗したところです。
それでわたしは賛成できないところなのです。

酔うぞ さんの言うことは分かります。
「製造に直接反映される検査」でないですし、「モノがちゃんと作れない」ことの対策じゃないんですから。先の私の投稿でも下のように書いてます。
>>「ある企業の出荷検査が信頼できない」となって、その企業が検査を増やします、とやっても、信頼できませんよね?
実際にそういうケースでは、第三者機関で検査させるんじゃないでしょうか?
和田氏の「資格試験」も、第三者機関による「検査」と考えた方が分かりやすいんじゃないでしょうか?

「ちゃんと作れているか?」ということについて、受け入れる側としても特に必要な項目以外の受け入れ検査なんてやってられませんが、本来信頼すべき製造側の出荷検査が信頼できないとなると、自分とこでやるか第三者でやるか、ってことで、第三者でやらせることになる。冒頭に書いた「受け入れ側で選別してよ」の派生ですね。
ですが、それは、受け入れ側が必要に迫られてやっていることであって、アメリカであろうがどこであろうが、受け入れ側が選別しても、製造側が「ちゃんとモノを作る」には製造側が改善しないとどうにもならないわけで。

投稿: 北風 | 2008/09/23 13:14:57

連投失礼します。長いので分割しました。

>ここは、いわば「本音とタテマエ」をゴッチャにしていると感じます。(省略)
当然「キチンと履修させた上での進学率向上」であるはずですが、それを「進学率向上のために、必修科目をすっ飛ばした」のが必修科目履修偽装事件です。

 ゴッチャというか、「タテマエ」と書かれた部分に問題がある以上、それを問題にすべきであるということですが。「モノがちゃんと作れない」とターゲットの問題をゴッチャにされている部分もあって分かりにくくなっています。
 前にも書いてますが、「必修科目をすっ飛ばした」のなら、履修させていません、以上なんですよ。もちろん、進学率向上という目的と科目があってないだろ、という、製品ターゲット・コンセプトがおかしい、という問題はありますよ。
 でも、「履修させたと偽る」ところは、「モノがちゃんと作れていない」ところで、規格を遵守していない、というか、製造がそれをしてはいかんだろ、という問題ですね。
 で、後者の部分を抜きにして、「「すっ飛ばした」のが偽装事件です」、としてしまえるのは、何か麻痺している部分があるというか、議論がかみ合わないところで。

>和田氏が「常識に欠ける若者は問題だ」というのはその通りなのですが、その解決策は資格試験であろうが、常識科目の新設であろうが、現在の教育・受験制度の手直しではどうにもならない、と考えています。

 エントリの和田氏の記事をみる限り「常識に欠ける若者は問題だ」という問題提起は直接にはないんですけどね。
 「高校教育までで履修させるべきこと」が何かというのはあるんですが、その履修がなされれば、【酔うぞさまが問題にしている「常識の欠如」】が解決するのであれば、教育・受験制度の手直しで解決するでしょうし、そうでなければそれは解決しないでしょう。
 少なくとも「進学率の向上に寄与する学力」という「常識」と比較すればまだ把握しやすい項目について対応できない限りは無理でしょうね。

投稿: 北風 | 2008/09/23 13:16:31

うーん、なんかよくわからんけど。
生きてくのに、そんなに高度な「学力」って必要なのかな?

世の中の仕事のほとんどが、中卒程度の学力があれば
充分にこなせるんじゃないか?と思うわけです。

まあ,学力が全然必要ないとは言わないし、
中卒程度の学力をベースを条件にしてだけど、
ある知識が必要なら,本屋に行って本を買うとか
そんなので概ね、間に合っちゃうわけで、

自分なんかは、その必要な知識を、世の中に出ても
できるだけ安く、できるだけ効率的(体系的)に
学べる仕組があれば、良いんじゃないって思いますがね。

さらに言えば、その結果を第三者が保証出来るような
仕組が有れば充分でしょ。まあ第三者の保証なんて
仕事する上では、たいした意味は無いってヒトは
そんなものは要らないだろうけど…。

例えば,仕事上で必要に迫られれば、今の子達が高校3年・大学4年の7年間で、
学んでる事なんか、案外、短期間で身に付くんじゃないかね。
さらに言えば、この7年間にかかるお金や時間は、ある意味膨大な無駄になってる気もする。
そこを改善してしまえば
少子化で働き手が減ってる問題なんてのも、
ある程度ソフトランディングさせることもできるんじゃないの?
まあ問題の先送りとは言われるかもしれないけど。

和田さんの言ってる事は、正直、受験勝ち組の
視野狭窄みたいな感じがするんだよね。

なんか,国や世の中を引っ張るエリート層に求められる問題と
そうでもなく安寧に生きてく普通の層の問題を
腑分けしてない感がある。

まあ、高度な仕事は,優秀なヒトに任せれば良いと考えて
その他のヒトは、読み書きソロバンが出来て,適度なモラルと
好奇心があれば、充分生きていけますよ。

投稿: 思想は無いけどね | 2008/09/24 15:16:19

>世の中の仕事のほとんどが、中卒程度の学力があれば
>充分にこなせるんじゃないか?と思うわけです。

 世の中のほとんどの求人が、中卒でもよいとはなっていないし、給料のの学歴差はしっかり存在するのは何故でしょうか?

投稿: apj | 2008/09/24 17:31:21

>世の中のほとんどの求人が、中卒でもよいとはなっていないし、
>給料のの学歴差はしっかり存在するのは何故でしょうか?


えーと、それはね、選抜のための条件だね。
就職も、進学もね。選抜の為には差異をどこかにつける必要がある。
そのひとつの基準として、学力やら学歴を利用してるという事でしょ。でもって、その考え方が支配的になってる世の中だってこと。

それで、さらにその結果、社会的ポジションにつけないゆえの
給与の差も生まれると。


コメントで言いたかったのは、実質的に仕事をこなすためには
中卒程度の学力でも充分ってことです。

言い方を変えれば、高卒やら大卒を騙って、ある職についたとしても
仕事の実行上で,ほとんど困る事なんて起きないような気がする。
てことです。

ちなみに、私は会社を経営してますが、使えない大卒もいれば
むちゃくちゃ出来る高卒も居る。でも、中卒は絶対数が少ない為か、
応募が無い。ゆえに採用したことはない。

ただし,今の時代に中卒という選択をする人間には、
学力の以外の部分に、なにか問題を抱えてそうな気がする。
でも、それは面接で30分も話せば判ることですけどね。


投稿: 思想は無いけどね | 2008/09/25 0:25:17

もとのタイトルを「学力問題と言えるのか?」としたのは、わたしは「いわゆる学力」とか「学力=入試の成績」といった見方で考えてみています。

つまり、常識は学力以外に属する、となってしまいます。
だから、入試で常識に属するようなことを試験するというのには、違和感を感じるところです。

もう一つは、これも製造業的な考え方なのですが「個々の工程での最善の追求は、全体の最善にはなり得ない」というのがあります。

これが一番の問題意識かな?

投稿: 酔うぞ | 2008/09/25 10:20:58

     世の中のほとんどの求人が、中卒でもよいとはなっていないし、
     給料のの学歴差はしっかり存在するのは何故でしょうか?


これは、学力(実力)と資格の問題でしょう。
本来は、一致しているべきだから「資格によって学力分かる」あるいは「資格と学力は比例している」と考えるべきところを、和田氏は「資格と学力が比例していないぞ」と問題にしているように見えます。

現実には、卒業資格で測れるところは少ないし、まして入試の成績で分かることが、実社会でどれほど有効なのか?となるとかなり怪しいでしょう。

和田氏の指摘には「現行の入試では測っていないところがあるぞ」が出発点ですが、わたしには「資格試験の実施で測れるものなのか?」という思うところが大きいですね。

これが「やらないよりマシだろう」ということなら、分からないでもないのですが、それでは「入試改革の一つ」に過ぎないわけで、AO入試といったものの問題解決にはならないように思います。

受検できる科目数を限定できる、ということ自体が間違っているのではないだろうか?
その上で、科目数を増やすというのは、どんどん歪める事になるような気がします。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/25 10:33:07

>つまり、常識は学力以外に属する、となってしまいます。
>だから、入試で常識に属するようなことを試験するというのには、違和感を感じるところです。

お書きになっておられることが、よく分からないです。
エントリの和田氏の主張では「学力」についてしか述べられていないのですが。
AO入試(学力試験の代わりに書類審査、面接、小論文などで選抜)が「学力」以外に属するものをみるものですが、和田氏はこれを強化しろ、と言っているわけではないので。

>もう一つは、これも製造業的な考え方なのですが「個々の工程での最善の追求は、全体の最善にはなり得ない」というのがあります。
>これが一番の問題意識かな?

お書きになっている部分最適が全体最適ではないというのは正しいですが、高校の現状が、部分最適化の結果でもないでしょうし、現状はそれ以前の問題であって、全体最適と部分最適の問題は現状とは関係ないように感じますが。 

>和田氏は「資格と学力が比例していないぞ」と問題にしているように見えます。
>現実には、卒業資格で測れるところは少ないし、まして入試の成績で分かることが、実社会でどれほど有効なのか?となるとかなり怪しいでしょう。

「資格」の意味を前半と後半でズラせていませんか?
卒業させるに際して履修させたと学校が認めた「学力」については、卒業資格がある以上、担保されているはずだ、というのが担保されていない、というのが、和田氏の言うところの「学力」=「資格」でない、ではないでしょうか。

「社会に必要な資質」うんぬんはそもそも測れるものでもないですし、高校側が卒業資格でもって担保できるものでもないでしょう。

>和田氏の指摘には「現行の入試では測っていないところがあるぞ」が出発点ですが、わたしには「資格試験の実施で測れるものなのか?」という思うところが大きいですね。

和田氏のいうところは「学力」で測っていないところがあるぞ、ですからまだしも測れるものなのではないでしょうか。AO入試のような小論文や面接でみるものは測れるものなのか?と思いますけど。

>受検できる科目数を限定できる、ということ自体が間違っているのではないだろうか?
その上で、科目数を増やすというのは、どんどん歪める事になるような気がします。

企業の受け入れ検査が特に重要視する項目に限定されていたりしますし、大学入試の受験できる科目数を限定できる、ということも間違いではないでしょう。
ただ、その前提として、他の項目は製造側で担保されているはずだ、ということがあるだけで。
そこが担保されていないのであれば、科目が増えるでしょう。
もっとも、科目を増やさなくても高校が担保できるのです、ということであれば増やさなくてもすむでしょうから、実際に高校はそう言いきれるのか、というところが問題でしょうけど。

投稿: 北風 | 2008/09/25 22:22:36

ちょっと時間がないので、一点だけ。

    >受検できる科目数を限定できる、ということ自体
    >が間違っているのではないだろうか?
    >その上で、科目数を増やすというのは、
    >どんどん歪める事になるような気がします。
    
    企業の受け入れ検査が特に重要視する項目に
    限定されていたりしますし、
    大学入試の受験できる科目数を限定できる、
    ということも間違いではないでしょう。
    ただ、その前提として、他の項目は製造側で
    担保されているはずだ、ということがあるだけで。
    そこが担保されていないのであれば、科目が増えるでしょう。

ここは、北風さんとわたしで、最大のすれ違い(あるいは誤解)のようです。

分かりにくいので「科目数を限定できる」という表現はまずいだろう、と思いつつ書いたところですが「科目を限定できる」とか「範囲を限定できる」の方がまだ近いかな?

少なくとも「数」ではないのです。
だから「科目数を減らす」とは書けなかったのですが・・・・・。

そこで、担保されていない場合に「数を増やしても意味がない」と思っています。
量ではなくて質の問題だ。ということですね。

質は極めて測りがたいから、量に向かったのが現在の受検の仕組みだと思います。
その次に、量を数字的に減らして「ココだけでよい。他は普通でよい」とやったのがAO入試などでしょう。
これも「数にこだわってからヘンになった」と理解しています。
本当に天才的なひらめきがある学生がとれるのであれば、AO入試も意味があるのでしょうが、そのためにはAO入試枠を5%以下にする、といったことは必要でしょう。
そうなると、現在のAO入試とは似て非なるものになりますね。

話を戻すと「量的な解決は不可能だろう」がわたしの考えの基本です。
従って、「質的改善」が必要であって、現行の制度を改善してもダメだろう、と思うところです。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/26 8:14:23

>和田氏の指摘には「現行の入試では測っていないところがあるぞ」が出発点ですが、わたしには「資格試験の実施で測れるものなのか?」という思うところが大きいですね。

 学校で教科書を学んだら身に付く範囲の知識そのものが身に付いていないのに、きちんと測っていないために、その状態でも通ってしまうというのが和田氏の指摘ですよね。ですから、資格試験の実施で測れるはずですけど。

>質は極めて測りがたいから、量に向かったのが現在の受検の仕組みだと思います。

 知識って、量が増えたら質の違いに結びつくものではないですか。

 高校卒業の学歴があれば高校で教えるべき内容(指導要領の内容)は身に付いている、ということをチェックするシステムはあった方がいいのでは。

投稿: apj | 2008/09/26 9:54:37

>知識って、量が増えたら質の違いに結びつくものではないですか。

機械的に円周率を覚えたり、東海道線の駅名を覚えるといったことも、知識の量の増加そのものでしょう。
そう言うことが、質的な向上になるとは思えません。

量と質の問題は、知識や学習といった面でも厳然としてあると思います。

投稿: 酔うぞ | 2008/09/27 9:16:17

>>機械的に円周率を覚えたり、東海道線の駅名を覚えるといったことも、知識の量の増加そのものでしょう。

この議論の流れででこういった、学校で学習するのではないものを例を出すのは相応しくないと思います。

自分から憶えようとしないと憶えない類の知識ですし、傍目には無駄に見えるけど、当人にとっては興味のあることですよね、こういうのって。

投稿: About | 2008/09/27 11:27:31

酔うぞ さま

>>受検できる科目数を限定できる、ということ自体が間違っているのではないだろうか?
>ここは、北風さんとわたしで、最大のすれ違い(あるいは誤解)のようです。
>分かりにくいので「科目数を限定できる」という表現はまずいだろう、と思いつつ書いたところですが「科目を限定できる」とか「範囲を限定できる」の方がまだ近いかな?

ここ、本当によく分からないのですが。
「受験できる「科目・範囲」を限定できる、ということ自体が間違っているのではないだろうか?
 
ということであれば、それは「絶対の正解であるかどうかは分からない」としかいえないですね。
現行の入試体系や教育制度に問題あり、として、大学入試にも問題あり、とするなら、間違っているとも言えますし。

 とはいえ、大学に入るに際して、高校で教えるべき内容(指導要領の内容)は身に付いている、ということをチェックするシステム、としての大学入試であれば、各大学が「範囲・科目を限定して」チェックするのは間違ってはいないのではないか、と思うのですが。

>そこで、担保されていない場合に「数を増やしても意味がない」と思っています。

先に、メーカーの品質・出荷検査成績書が信頼できない場合の話を書きましたけども、担保されていないのであれば、どこかで「範囲・科目を広げたチェック」をしないといけない。
担保されていない、ということから、数を増やしてチェックすることに意味が生じてきますよ。

>量ではなくて質の問題だ。ということですね。
>質は極めて測りがたいから、量に向かったのが現在の受検の仕組みだと思います。
>その次に、量を数字的に減らして「ココだけでよい。他は普通でよい」とやったのがAO入試などでしょう。

下でも書きますが、質は極めて測りにくい、というか測るという対象にそもそもなるのか、と。
(質を量の要素に変換しないとして)
で、AO入試については違いますね。
そもそも、大学入試自体が、「高校卒業の学歴があれば高校で教えるべき内容(指導要領の内容)が【全て】身に付いている、ということをチェックする」ものではなく、「ココだけは念入りにチェック・選別するよ」としたものでしょう。

AO入試については、むしろ、質的なものを何とか考慮できないか、とした試みとみなせるのではないかと。

>話を戻すと「量的な解決は不可能だろう」がわたしの考えの基本です。
従って、「質的改善」が必要であって、現行の制度を改善してもダメだろう、と思うところです。

「質的改善」とは、「本当に天才的なひらめきがある学生がとれる」ようにするということですか?

 検査をされていたということであれば言うまでもないことなんでしょうけど、「量的な要素になんとか翻訳できない質的な要素」ってどう計るんですか?
手触りとか風合いとかでも、無理やりに「硬さ」「摩擦」「曲げ反発」etcの量的要素になおして
それらからなんとか質的な要素として捉えようとせざるをえないわけで。

 「本当に天才的なひらめきがある学生がとれる」というか、「こいつはオオモノになる」という素質を見出す、ということについては、その道の名伯楽が、本人も気付いていない才能を見出すという話がありますね。(プロ野球のスカウトなんかが有名ですが、学校の監督・教師やその道の師匠だったり)
 でも、本当に少数精鋭の場合であって、名伯楽の眼なんか、どうやって他の人に伝えるんですか?こんなもの制度化なんて出来ませんよ。

投稿: 北風 | 2008/09/27 11:30:40

>検査をされていたということであれば言うまでもないことなんでしょうけど、
>「量的な要素になんとか翻訳できない質的な要素」ってどう計るんですか?
>手触りとか風合いとかでも、無理やりに「硬さ」「摩擦」「曲げ反発」etcの量的要素になおして
>それらからなんとか質的な要素として捉えようとせざるをえないわけで。


議論の向かっているところとは、全然別のレイヤーの話に転がっちゃうかも知れないけど…。

なんか、質的なというものを量的要素に還元してというところが
よくわかんない。
そんなもの、別のもんだ!ってのが、いわゆる社会、いわゆる現場での
理解じゃないのかな?

授業で習いました的な学力は、入試でも資格試験でも、出荷検査でも受け入れ検査でも
なんでもいいけど、その習得具合をまあ図る事はできる。
そのためのチェックの機会がたくさん必要なら、たくさんやれば良いでしょ。
足りてなきゃ,勉強せい!ってことでいいんじゃないの?


でも、質の問題は、別のところにあって、だからこそ面接とかAO入試なんて選抜方法を
取ったりするわけでしょ。

で、自分はどっちかというと、面接する側の「ヒトを見るチカラ」の低下の方が気になる。

まあ、受験やら何やらでは、規模の問題からいって、そんな選抜方法は現実的に無理!
というようなご意見も有るだろうけれど、
いわゆる世間では、この面接という方法で、案外効果をあげているような気がする。

ただ、いちいち面接するのも大変なので、学力試験をやって、まあ「歩留まり」は高くして
おいて、
そこをクリアしたヤツを面接すれば効率的というのが、学力試験だったんじゃないの?

それが、いつの間にか一人歩きをして、本来なら前述の位置づけでも良いような
現状の学力を測る試験=学力試験というものを、重要視してしまったがゆえに、
ヒトがヒトを計るというチカラを、選抜する側がどんどん無くしていったという感がある。

こういうことを言うと,判断の基準が一元的じゃないから、そんなのは
駄目だという反論が出そうだけど,
判断の基準が、一元的に有るという思考のあり方自体が、実は生半可な感じがする。
基準なんて、ひとによって違うし、ズレもある、けれど概ね、判断は有るところに
なんだか収束するよね。というのが世間知であって、そういう部分も含めて、
ヒトがヒトを計るというチカラが機能するというのが、世間の底力というもんでしょ。

選抜する側に、そのへんの能力が欠けていて、質だ量だといってもはじまらないぜ。という風に
思っちゃうわけです。

アー、これじゃ議論にならないか?
でも,茶々をいれてるわけじゃないからね。

投稿: 思想は無いけどね | 2008/09/29 5:58:01

>授業で習いました的な学力は、入試でも資格試験でも、出荷検査でも受け入れ検査でも
>なんでもいいけど、その習得具合をまあ図る事はできる。
>そのためのチェックの機会がたくさん必要なら、たくさんやれば良いでしょ。
>足りてなきゃ,勉強せい!ってことでいいんじゃないの?


ありゃりゃ、誤字だ!
図る→量る、う〜ん測るでもいいのか?
いずれにしても、図るは間違いです。
学力が足らないね〜!失礼しました。

投稿: 思想は無いけどね | 2008/09/29 6:07:12

ややトピずれになるのですが。

>でも、質の問題は、別のところにあって、だからこそ面接とかAO入試なんて選抜方法を
取ったりするわけでしょ。

「質」って何か?ってことはあると思うのですよ。
「適正」というようなことをみるのか「資質」をみるのか、何をみるのか。

>なんか、質的なというものを量的要素に還元してというところが
よくわかんない。
そんなもの、別のもんだ!ってのが、いわゆる社会、いわゆる現場での理解じゃないのかな?

ああ、ご指摘のように確かに別物ではあるんですよ。

先の投稿でプロ野球のスカウトをあげましたが、プロ野球の入団選抜であれば「プロ野球選手としての資質・やっていける能力」がある人間をみれればいい。
でも、それ自体を質としてみることは難しい。
それを遠投とか走力とか入団テストの項目に落とし込んでいるわけですが、それはもはや別物でしょう、といわれれば、それはそうですね。
とはいえ、「現場の理解」からすれば、完全に別物、とも言いにくいのではないでしょうか?

>で、自分はどっちかというと、面接する側の「ヒトを見るチカラ」の低下の方が気になる。
>まあ、受験やら何やらでは、規模の問題からいって、そんな選抜方法は現実的に無理!
というようなご意見も有るだろうけれど、
いわゆる世間では、この面接という方法で、案外効果をあげているような気がする。

 ここが本当に効果をあげているのか?というところがよく分からないのですが。
「効果」がわかりやすい例として、プロ野球のスカウトをあげましたが(スカウトした選手達がどれだけ活躍したか、活躍できる選手を選抜できたのか?という点で)、案外効果をあげているのでしょうか?

>ヒトがヒトを計るというチカラを、選抜する側がどんどん無くしていったという感がある。

人が人をはかる、というのは、能力・適正があるか、信頼できるか、一生を共にできるか、○○として大成・活躍できるか、とか、いろいろありますね。
 プロ野球とか企業の面接とかお見合いとか、かなり目的を絞り込んだ見方をする状況があるわけですが、力を無くしていったというか昔はそこまで力があったのか?とは思うのですが。

投稿: 北風 | 2008/09/29 7:37:11

>「質」って何か?ってことはあると思うのですよ。
>「適正」というようなことをみるのか「資質」をみるのか、何をみるのか。

「適正」というのは、「適性」の意味では無いよね?
「適性」の意味であれば、「資質」に近い意味合いになるので…
で、
お答えは、「適正」な学力、は一般的な入試であれば測れる。
面接とかAO入試では、ちょっと測りきれない。ゆえに
高校を卒業してるのであれば、その程度の学力を有しているとみなし、
そのうえで、面接とかAO入試をしてる。

だから、この場合は「資質」を見るというのでよろしいのでは?


まあ、その結果、例えば分数を理解していない学生が入ってきた!というのは
「みなしてる」のに違ってた!ってことで、まあ大学側が,高校側にお前んところの
成績証明は信用出来ねえ!だからAO入試ていったて、最低限の学力(適正)を
測るぐらいの試験はやるぜ!ってので駄目ですか?

制度やらシステムの不備があったとしても、和田氏が言うように制度やシステム自体を大きく改変しなくても
選抜側の、ちょっとした改善で解決出来るんじゃないの?
その結果が、良けりゃ真似するところも増えるって考えるんじゃ駄目なの?

>「現場の理解」からすれば、完全に別物、とも言いにくいのではないでしょうか?


二つは別物で良いんじゃないか?適正な能力の部分と、資質や適性の部分を
秤にかけて、う〜ん、こっち!なんてふうに「現場では決めてる!」ような気がするけど。
まあ、プロ野球の現場でなら、チーム事情や他球団の動きも見て、どのバランスで
手を打つかということなんでしょうけど。

まあ、
> 完全に別物、とも言いにくいのではないでしょうか?
と同じ事をいってるのかも知れないけど、


> ここが本当に効果をあげているのか?というところがよく分からないのですが。

客観的に、効果の具合を数値化して評価してるの?と問われれば
う〜ん、そんな数字は知らん!のだけど、
例えば、社員採用なんて場では、面接は無くなっていない。
なぜなら、それは効用が有るから。なんてお答えでは駄目ですかね?

ちなみに、我が社は、面接時に応募者の「手書き」の履歴書を要求しますよ。
履歴書なんて、客観情報で埋まってるようなものと思われてるかも知れないけど
手書きの履歴書は、雄弁にその人の人となりを語ります。

文字の大きさや、スペースの使い方。筆勢なんてのも、重要ポイント。
採用系のネット応募に入力された情報なんかより、はるかに厚みのある
情報のカタマリとして扱えるし、それをベースに面接したりもする。

後、手書きとは関係ないけど、文体とか自己アピールに品性が感じられるか?とか
いろいろとあって、それは「ハッキリとした客観的に共有できるものじゃない」けど
明らかに、判断に寄与するわけです。

まあ、諸々考え合わせれば、
やっぱり面接は、効果がある!と私は思うけど。


> プロ野球とか企業の面接とかお見合いとか、かなり目的を絞り込んだ見方をする状況があるわけですが、

でも、入試だって目的を絞り込んでヒトを選ぶ事には変わりないでしょ。
制度やらシステムの不備を、あげつらうよりは、実際に一人の応募者に
シッカリ向き合うって時間を増やした方が、良いような気がするな。
現状の入試は、だから「あら選び」として位置づけるぐらいでも良いような気がする。
「あら選び」してから、大変だけれどもしっかり面接するってのじゃ駄目なのかな?

> 力を無くしていったというか昔はそこまで力があったのか?とは思うのですが。

これも、また客観的な数値などでは、証明出来ない。
ただ、ヒトとヒトとが向き合うという振る舞い自体は、少なくなっていて
対人的なコミュニケーションのチカラは、昔に較べて低下してるような気がする。
例えば、叱れない大人とか、場が読めない大人とか…。
ヒトとヒトが向き合うという機会が少なくなれば、
ヒトがヒトをはかるという能力だって、当然磨かれないのでは?

そう言った意味で、必ずしも面接というような形式ではないけれど
昔のヒトはヒトをはかる能力が高かったんじゃないのかな?

う〜ん、でもこのくだりは自分で書いていても説得力がないな?
チト,熟考してみます。

投稿: 思想は無いけどね | 2008/09/30 4:35:46

>まあ、その結果、例えば分数を理解していない学生が(省略)その結果が、良けりゃ真似するところも増えるって考えるんじゃ駄目なの?

前半部は同意です。
元の引用記事を読んで頂ければ、
>基本的にAO入試というのは、アメリカで行われている試験制度を採り入れたものということになっているが、アメリカの場合は、SATと呼ばれる統一学力テストの点数も評価したうえでのセレクションが原則だ。ところが、日本では、推薦入学を文科省が11月まで認めていないので、その代わりになる(省略)
中教審や教育再生懇談会でも、この事態を認識して、高大接続テストの導入を検討しているそうだが、早急に大学入学の資格試験を作らないと大学教育のみならず、高校教育までが崩壊しかねない。

とありますので、書かれている「適正をはかる試験」がアメリカではSATであり、和田氏のいう高大接続テストであるなら、駄目なの?というか、和田氏の主張は書かれておられる方向だと思うのですけど。

>「適正」というのは、「適性」の意味では無いよね?

 すいません、これは私の表現が拙かったです。
意図としては、適正=「現在あるいは将来の能力」、資質=「潜在能力」という感じでしたが。

> ここが本当に効果をあげているのか?というところがよく分からないのですが。
>> 客観的に、効果の具合を数値化して評価してるの?と問われれば う?ん、そんな数字は知らん!のだけど、例えば、社員採用なんて場では、面接は無くなっていない。なぜなら、それは効用が有るから。(省略)

 面接は広く用いられていて、例えば社員を採用する上で効果がある、というのは分かりますし同意です。
ただ、「試験としての効果」という点ではどうなんだろうな、と、面接を否定するというわけではなく、私自身もよく分かっていないのですけど、思うのですよ。

「試験の効果」というのをどう考えるのか、ですが、本来その試験でどういう対象を絞り込むか、が設定されていて、それをどれくらい適切に絞り込めているかというのが試験の効果が高いかどうかだと思います。

 ただ、面接というのは、どういう対象を絞り込むか設定されてなくても臨機応変に、効果を上げてしまう。

 企業が社員を採用する場合なんかは顕著なんですが、面接で「役に立つ人材」であれば幹部候補でも研究者でも営業でも採用するでしょう。でも、どう考えても要求される資質とか能力とか結構違うわけですが。
企業としては「役に立つ人材」をとれればいいのですが、「学校の入学試験」としてみた場合、どうなんでしょう?

>でも、入試だって目的を絞り込んでヒトを選ぶ事には変わりないでしょ。制度やらシステムの不備を、あげつらうよりは、実際に一人の応募者にシッカリ向き合うって時間を増やした方が、良いような気がするな。

 ここは、そういう試験をするには、制度やらシステムをなんとかしないと、そんな時間も労力も捻出できないとは思いますけども。

投稿: 北風 | 2008/10/01 7:45:16

色々と多忙で遅れがちのコメントです。

北風さんが「質は極めて測りにくい、というか測るという対象にそもそもなるのか、と。」
とおっしゃるところがよく分からないのですが、測る必要があれば測る手段を何とかするべきで、測りにくいから測らないというのは違うだろうと思います。

その上で、

    大学入試自体が、「高校卒業の学歴があれば高校で教えるべき内容
    (指導要領の内容)が【全て】身に付いている、
    ということをチェックする」ものではなく、
    「ココだけは念入りにチェック・選別するよ」としたものでしょう。

それを問題にしたのが、和田氏の意見だと思います。
「現在の試験制度では、あまりに外れている(常識に欠けている)学生が入る」と問題視した意見だと思います。

そこで、和田氏は資格「試験」を導入するべし、との意見なのですが、わたしは「試験」を増やしてもあまり意味がないだろう。という意見です。

    でも、本当に少数精鋭の場合であって、名伯楽の眼なんか、
    どうやって他の人に伝えるんですか?こんなもの制度化なんて出来ませんよ。

え~とですね、制度化が必要だと言うのは和田氏であって、わたしは制度化の前に方向性を質的な評価にするべきだろう、と言っているつもりです。
その意味では、資格試験をやっても無意味ではないかと言うわたしの意見は、北風さんの「制度化できない」とほぼ同等の意味になるかと思います。

和田氏が「常識に欠ける」 → 「常識のレベル(質)を確認するために資格試験が必要」 → 「試験対策で突破するから、常識が良くなるとは言えない」 → 「試験は効果がない」
というのがわたしの意見です。

その一方で、若者の常識レベルをなんとかしなくてはいけないわけで、それが試験の対象にならないのならどうするのか?となります。
おそらくはここは、試験重視を減らして、手っ取り早く言えば必修科目履修偽装などが起きないようにあるいは、履修偽装しても無意味になるように誘導するべきだろうと思います。

投稿: 酔うぞ | 2008/10/01 10:57:36

思想は無いけどねさん

    議論の向かっているところとは、全然別のレイヤーの話に
    転がっちゃうかも知れないけど…。
    
    なんか、質的なというものを量的要素に還元してという
    ところがよくわかんない。

この際ですからあっちこっち転がして良いと思いますよ(^_^)

すごく大ざっぱな言い方をすると、メーカーが出荷検査し、販売店が受け入れ検査をし、国の検査をパスしたとしても、市場が受け入れない、というのはしばしばあることです。

今の議論のベースには上記の例示によく似たところがあるのではないか?と思います。
わたしが悪いのではありますが、必修科目履修偽装に対しては「偽装するのは犯罪も同様だ」とストレートに批判があるのが当たり前で、対策も基本的には「ちゃんとやれ」でしょう。

わたしが興味を持つのは「なぜ必修科目履修偽装に至ったか」なのですね。
そうすると、例えば必修科目に意味がなかった、とかたまたま先生が居なかった、などありとあらゆる「理由」を付けることが出来るわけです。
その中に「必然性に近いものがあるか?それはなぜか?」を見たいわけです。

つまりは、現状の枠組みは合理的なのか?という議論になりますね。

ところで、当の生徒学生の諸君はもちろん、教育関係者にも厳しい事になりますが、学生が社会人になると、社会が必要としている若者になっていることが最優先であることはどうやっても変えられない。
もちろん、社会が必要とする多様性の維持のためには多様な若者が必要です。

そういう観点からは、あらゆる方法で「教育する」ことが必要であって、常に完璧を目指しつつ、完璧には出来ないことなのでしょう。

    で、自分はどっちかというと、
    面接する側の「ヒトを見るチカラ」の低下の方が気になる。
    
    こういうことを言うと,判断の基準が一元的じゃないから
    そんなのは駄目だという反論が出そうだけど,
    判断の基準が、一元的に有るという思考のあり方自体が、
    実は生半可な感じがする。
    基準なんて、ひとによって違うし、ズレもある、けれど概ね、
    判断は有るところになんだか収束するよね。
    というのが世間知であって、そういう部分も含めて、
    ヒトがヒトを計るというチカラが機能するというのが、
    世間の底力というもんでしょ。

その通りですね。
面接で人を見抜くといった直接的なものではなく、社会一般に一点に注意が集中しすぎで総合的な判断や表現が能力的にダメになっているところが問題でしょう。

わたしが「資格試験」にこだわるのは、今まで試験か一人歩きし過ぎていると考えているからです。

まあ、資格試験を実施するとなると「大学入学資格試験」でしょうねぇ。
試験を実施して点を付けないというのは不可能なように思いますが、一ヶ所だけ「これは論外」ということで落第、というのが資格試験だろうと思うのです。

少なくとも、資格試験では科目選択が出来てはダメでしょう。
そうなると、形としては面接の方が向いているかもしれない。
しかし、面接する側の能力に疑問ありかもしれない。

資格試験が必要という意見は「質を何とかしろ」ということそのものだと思うのですがねぇ。

投稿: 酔うぞ | 2008/10/01 11:29:01

酔うぞさん、

>「現在の試験制度では、あまりに外れている(常識に欠けている)学生が入る」と問題視した意見だと思います。

 ではなくて、あまりに高校の指導要領に定めた内容を知らなさすぎる学生が入る、では。
この場合の常識は、あくまでも教科書の内容に限ったことで、世間知のような意味での常識ではないですし。

>試験重視を減らして、手っ取り早く言えば必修科目履修偽装などが起きないようにあるいは、履修偽装しても無意味になるように誘導するべきだろうと思います。

 「必修科目の全科目について試験します。1つでも極端に悪い点数のものがあったら高校卒業の資格はとれません」で済む話では。

 でもって、学力についてなら面接というか口頭試問でそれなりにペーパーテストと相関のある結果を出すこともできると思いますが、労力を考えるとペーパーテストの方に軍配が上がりそうな。

>すごく大ざっぱな言い方をすると、メーカーが出荷検査し、販売店が受け入れ検査をし、国の検査をパスしたとしても、市場が受け入れない、というのはしばしばあることです。

 教育の現状からすると、メーカーがお手盛り出荷検査でお茶をにごし、販売店はずさんな受け入れ検査しかする気がなく、国の検査はろくに実施されておらず、市場も受け入れない、という感じになってたりしませんか。

投稿: apj | 2008/10/01 19:26:50

>北風さんが「質は極めて測りにくい、というか測るという対象にそもそもなるのか、と。」とおっしゃるところがよく分からないのですが、測る必要があれば測る手段を何とかするべきで、測りにくいから測らないというのは違うだろうと思います。

 酔うぞさまの下のコメントを受けてのコメントですね。
そのため、(質を量の要素に変換しないとして)と括弧を追記していたはずですが。

>>そこで、担保されていない場合に「数を増やしても意味がない」と思っています。
量ではなくて質の問題だ。ということですね。
質は極めて測りがたいから、量に向かったのが現在の受検の仕組みだと思います。
その次に、量を数字的に減らして「ココだけでよい。他は普通でよい」とやったのがAO入試などでしょう。

 上の方での酔うぞさまに下のコメントがあります。
>>多くの検査で確実にチェックできるのは「量の検査」であって「質の検査」はかなり問題があります。
もちろん「質を数値で表す」と「量の検査」に変換できるのですが、それでも質全体をうまく数値で表すのは難しいので、完全には出来ません。

 私も同意見であって、測る対象になる(検査でチェックできる)のは「量」であって、「質を数値=量に変換できれば」その量について測れるでしょう。でも、(質を量の要素に変換しないとして)質そのものは測れないですよ、ということだけです。

それでも、入試で【質そのものを測る必要があれば測る手段を何とかすべき】とおっしゃるのであれば、それは理想なんでしょうけども、点数によらず面接などで学生のレベルをみる、というのは測るということなんでしょうか? 
質を量の要素に変換しないとして測るということについて、私にはイメージができないのですが。


>それを問題にしたのが、和田氏の意見だと思います。
>「現在の試験制度では、あまりに外れている(常識に欠けている)学生が入る」と問題視した意見だと思います。

私は、【指導要領の内容が身についていない学生が入る】と問題視した意見だと思います。

>え~とですね、制度化が必要だと言うのは和田氏であって、わたしは制度化の前に方向性を質的な評価にするべきだろう、と言っているつもりです。

>>話を戻すと「量的な解決は不可能だろう」がわたしの考えの基本です。
従って、「質的改善」が必要であって、現行の制度を改善してもダメだろう、と思うところです。

「質的改善」が、よく分からず面接試験なんかにするということかと思いました。

>和田氏が「常識に欠ける」 → 「常識のレベル(質)を確認するために資格試験が必要」 → 「試験対策で突破するから、常識が良くなるとは言えない」 → 「試験は効果がない」
というのがわたしの意見です。

 和田氏が「常指導要領の内容が身についていない」→「指導要領の内容が身についているかどうかを確認するために資格試験が必要」(→「試験対策で突破できるにはある程度、指導要領の内容が身についていることが前提」)→「試験は選抜としてはそれなりに有効」というのは私の感想です。

 高校で指導要領の内容を身につけるための手がうたれなければ、そもそもの受験生のレベルは改善されませんが、選抜としてはそれなりに機能するんじゃないでしょうか。

>おそらくはここは、試験重視を減らして、手っ取り早く言えば必修科目履修偽装などが起きないようにあるいは、履修偽装しても無意味になるように誘導するべきだろうと思います。

「高校で指導要領の内容を身につけるよう手をうつ」ために、試験重視を減らすというのはよく分かりません。
また、履修偽装しても無意味になるようにするに誘導するべき、というのも分かりません。産地偽装(銘柄でもなんでも可)しても無意味になるように誘導すべき、なんてことはないわけですし、産地偽装したら儲かる、などの意味があってもしてはいけないのですから。
 対策は、履修偽装に至った要因を探って潰していくしかないです。教員が不足しているのなら、教員を充実させないといけないわけですし、履修させる時間の問題ならカリキュラムを見直さないといけないわけで、無意味になるような誘導なんか関係ないのでは?

>その意味では、資格試験をやっても無意味ではないかと言うわたしの意見は、北風さんの「制度化できない」とほぼ同等の意味になるかと思います。

いや、質的なものうんぬんが「制度化できない」と言うだけであって、必修科目の履修についていえば、apjさんも書かれておりますように、無意味ではないようにできるのではないでしょうか?

投稿: 北風 | 2008/10/01 22:10:08

>すごく大ざっぱな言い方をすると、メーカーが出荷検査し、販売店が受け入れ検査をし、国の検査をパスしたとしても、市場が受け入れない、というのはしばしばあることです。

まあ、メーカーがちゃんと作っても、製品コンセプトがあってなかったというか、商品が市場に受け入れられないということは、確かにしばしばあります。
で、それが引用記事とどう関係あるんでしょう?
先の投稿でも書きましたが、開発コンセプトの問題とモノつくりができていない、という問題を混同させていませんか?

投稿: 北風 | 2008/10/01 22:14:13

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