« 神栖市市議会選挙・ようやく決着 | トップページ | 小学校の天窓から6年生が転落死・その3 »

2008.06.22

酒鬼薔薇世代と表現するのは良くないだろう

サンケイ新聞より「【秋葉原通り魔事件】「酒鬼薔薇」世代、教育のひずみ?

秋葉原の無差別殺傷事件で殺人容疑で再逮捕された派遣社員の容疑者(25)は、神戸連続児童殺傷事件の容疑者の元少年と同年齢の「酒鬼薔薇(さかきばら)世代」。 10年前、教育現場では神戸事件を受け、「心の教育」が問われながら、ナイフを使った少年の事件が相次ぎ、突然「キレる」子供の問題が深刻化した。
家庭や学校のしつけ・指導力低下が顕著になり、識者からは「挫折に弱い」「過保護」など、この世代が受けた教育の弊害を指摘する声もある。(鵜野光博)

■「実体験」希薄

「ヤンキー先生」の通称がある参院議員の義家弘介氏は、平成11年から務めた北星学園余市高校で、容疑者と同世代の生徒を受け持った。

「幼少期から『個人の自主性が大切』『校則はいけない』『詰め込みは悪』という教育にどっぷりとつかった世代」と振り返る。

昭和50年代に吹き荒れた校内暴力で管理教育や体罰が問題となり、反動から校則をなくそうという動きも出た時代。
埼玉県立所沢高校で平成9~10年、入学式ボイコットの騒ぎを起こした生徒も同じ世代だ。

学習内容を大幅削減した「ゆとり教育」の学習指導要領改定が行われたのもこの時期。
義家氏は「勉強ができる、できないは子供にとって切実な実体験。それが『できなくてもいい』という教師によってぼやかされ、努力の大切さという当たり前のことも教えられていなかった」という。

生まれた年に「ファミコン」が登場したこの世代。欠けている実体験を補うため、義家氏はイベントなどを生徒にやらせ、失敗を経験させるという教育を繰り返した。「みんな『何とかなる』と思っているが、現実は何ともならない。悔しがらせることで現実を教える教育を、高校でやらなければならなかった」

■「いい子」の虚像

「子供たちはなぜ暴力に走るのか」などの著書がある評論家の芹沢俊介氏は、容疑者が携帯電話サイトの掲示板に「親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り」「俺(おれ)が書いた作文とかは全部親の検閲が入ってたっけ」などと書き込んでいたことに注目する。

「小中学校で周りから高く評価されても、『それは自分じゃない』というギャップに苦しんだのだろう。教育熱心な家族の中で架空の『いい子』にされ、容疑者は存在論的に“殺された”のではないか」

芹沢氏は「それが仕事や人間関係でうまくいかないことに対する強い被害者感情の基になっている」と指摘。「被害者感情は、何かのきっかけがあれば即座に攻撃性に転化する。家庭と社会で2度殺された思いだったのではないか」

また、「プロ教師の会」を主宰する日本教育大学院大教授の河上亮一氏は「家族でも友人関係の中でもいいが、ありのままの自分を受け入れてくれるホームグラウンドがあるかどうかが重要だ」と話す。

「ホームグラウンドがあることを前提に、社会に出れば思うままにならないこともあることを、言い聞かせて育てる。容疑者にはホームグラウンドがなかったのでは」

■「自立」履き違え

平成10年1月、栃木県黒磯市(現那須塩原市)の中学校で、当時13歳の男子生徒が女性教師をナイフで刺殺し、翌月には東京・亀戸で、パトロール中の警官が15歳の少年にナイフで襲われた。「キレる少年」は社会問題に。これも容疑者らと同世代だ。

明星大教授の高橋史朗氏は、事件を起こした少年らに共通する点として「知能指数は低くないが、対人関係能力と自己制御能力という『心の知能指数』が低い」とし、「教科の基礎基本は考えても、人間として社会人としての基礎基本という観点が教育界から抜け落ちていた」と話す。

「自尊感情や他人の痛みが分かる心が育っていない。他と切り離された『個』の自立を重視し、他者とのつながりの中で生かされている自分を発見し、社会に参画する力を育てることをやってこなかった」

「勝ち組はみんな死んでしまえ」という容疑者の書き込みについて、河上氏は「いい大学を出て、一流企業に就職するのが幸せで『勝ち組』だという価値観が、若い人を追い詰めている」とみる。

「少子化で大学進学も容易になり、みんなが夢をみられる半面、成功できるのは相変わらず少数だけ。この現実がより厳しくのしかかるのが、容疑者の世代ではないか」と河上氏は話している。

問題は、この「世代」以後の教育が指摘されているような面について改善されているのかどうか?ということと、指摘されている望ましくない若者像は変化しているのか?だろう。

ここ数年、主に高校を中心に学校に出入りするようになって、実際には小学校から大学まで見ているし、訪問した学校の数も数十以上になっているから、普通の先生よりも学校の数だけは多いと言うほどの計算になってしまいます。
その経験と記事中の指摘を照らし合わせてみましょう。

失敗を経験させるという教育

わたし達が教えている授業では、ほとんど必ず出てくる考え方です。
ただ、失敗を経験させるだけではあまり生産的ではないし、そもそも「教育上有用な失敗」とは何か?であって、単に失敗しても良しとする、ではダメでしょう。

義家氏はイベントなどを生徒にやらせ、失敗を経験させるという教育を繰り返した。
「みんな『何とかなる』と思っているが、現実は何ともならない。
悔しがらせることで現実を教える教育を、高校でやらなければならなかった

これを実践しています。
このために、ロボットを作るところから始めて、チームでプログラムをどう作るのか議論し、相手の話が理解できない、自分の意見を理解させることができない、何事をやるのにも他人と協力した方が良い、幾らやってもキリがない。
といったことを経験させるようにしています。

この授業は高校生に実践していますが、評価は「いかに大人が期待する、どんどん発言し、ロボットを改造するような若者らしい積極性が出てくるか?」に置いています。

自分で作ったロボットやプログラムがライバルチームに勝ったり負けたり、全然違う考え方をするライバルがいることを知って、先ほどのチーム内で話が通じないことなどと合わせて「自分と他人の違いを知る」「自分と他人は違うのだから、コミュニケーションが必要だ」ということを実体験させています。

社会に出れば思うままにならないこともあることを、言い聞かせて育てる。

これは非常に重要だと思いますが、小学校から高校になっていくにしたがって、子どもたちから現実感が無くなっていくような印象を受けます。

最近の学校では、小学校から大学まで「キャリアー教育全盛」で学校内で「仕事についての勉強」は非常に多くやっているのだけれども、子どもたちが実際に仕事の場を見たり、大人から仕事の話を聞くといった事は、親など身近な大人からの情報が圧倒的に多いはずだと思います。
それを「学校の教育」で高度化していっても学校内で止まっていては「空想上の仕事の話」でしかないし、それ自体がどんどん現実離れを加速するという側面もあるでしょう。

社会に出るとどうにもならないことがある、と説明してそれを実践できる子どもなんて居ないと思うよ。
確かに事前に教育しておいて、社会で「何ともならない」問題にぶち当たったときに「あ、これが授業で聞いたことか」と思い出すかもしれないが、学校の教室で教育するよりも、社会に触れさせて体験させた方が、教育効果ははるかに高いだろうと思う。

この点に関しては、子どもたちが街の中で大人と接触することがほとんど無くなってしまった、そもそもお店がないから「お使い」が出来ない、駅のキップも券売機になっている。こういうところに問題の遠因はあるのだと思う。

社会に参画する力を育てることをやってこなかった

このような書き方をすると「社会」とカギ括弧付きになってしまうが、子どもたちの接する社会なのである。

たまたま学校には、多くの生徒がいて、40人を最大とするクラスで集団で授業を受けているから「学校生活=集団生活」であるかのように考えてしまうが、冷静に考えれば今の学校では集団を自然に作る機会はない。

生徒にとって学校での生活の基本は、学習だから集団で学ぶ学習は「グループ学習」となるだろう。
では通常の授業はグループ学習ではないのか?
考えてみると、通常の40人体制の授業では生徒に求められるのは「先生の話をよく聞け」であって生徒同士が話をするのは「雑談」であるし、試験の時に生徒同士が話せば「カンニング」になってしまう。
つまり、グループで意見交換するような場は、学校の中でも特殊な場合になる。

これは以前から、おそらくは近代教育制度が導入される以前から200年ぐらいは変わっていないのだろうと思う。
それなのに最近は「社会に参画する力の教育」という言葉に違和感を感じない方が問題だろう。

以前は、いわゆる社会教育の範疇で、社会との関わり合いを学んでいたわけですが、そういう機会が無くなってしまった。
昔から、家庭教育、社会教育、学校教育と並べるし、最近は「家庭教育が崩壊している」とする意見は多いのですが、わたしは「社会教育の消滅」の方が影響は大きいのではないか?と思っています。

学校が「社会に参画する力を育ててこなかった」というのは、昔は学校に要求されることではなかったものが、学校に積み上げられている、といった解釈が正しいのでしょう。

そういう意味では、果たして学校が引きうけることなのか、引きうけられることなのか、といった観点から整理するべきだと思います。

こんな風に、チェックしてみると「全然、世代の問題じゃない」と思うし、これからの若者の中に想像を絶するような犯罪行為をする者が出てこない、とも言えない。
何よりも、本当に上記でチェックしたことが、教育が問題のある若者を作り出したと関係づけられるのであれば、事態は今でも全く楽観できないと思うのです。

多くの人が「最近の高校生は幼稚だ」といった感想を述べます。若者は、生意気に背伸びして大人とやり合うくらいでちょうど良いのです。
そういう機会がない、といったところも問題でしょうし、学校教育が教科学習であり、教科単位の評価になってしまうから、どうしても総合的に学習するよりも教科単位でいわば縦割りで教科のつまみ食いのようなことになりがちです。
最近私が使っている言葉としては「レンガを積み上げている」と説明しています。

レンガ1個が高校の授業の単位だと考えます。
レンガを積み上げて家を造ろうとすると、レンガを闇雲に積み上げるのではなく、どういう積み方にするのかを考えながら積むべきなのですが、一方では「どれくらいの数のレンガを積んだか?」も現実の評価になります。

ここで、レンガの積み方をすっ飛ばして数だけ競うようなところがあるのが、受験競争です。
そして受験技術として、「レンガをいかに早く積むか」だけを教えているところもあるわけです。
結局のところ、家の作り方を無視する、という学習をしているわけで、これでは本末転倒になってしまいます。
大学受験などで、どんどんと受験科目が減っていることや、センター試験などに対して極めて細かい苦情があり、その対応のためにますます誤解の余地のない精密な試験にむかっている、こんなことで若者に社会に出るために必要な総合的な能力のレベルアップなんてのは出来ないし、第一受験の方向からは「社会性なんて知ったことではない」とやっていると言っても良いでしょう。

教科書を見てみると、驚嘆するべき精密で濃密な内容です。こういうモノを作ることが出来るのは、師範学校制度以来の100年の近代教育のノウハウと言ったところなのだと思いますが、やはりかなり特殊なことでもあることは、覚えておくべきです。
学校教育が、教育のすべてではないし、学校に全部を任せることも出来ない。その一方で、社会が子どもたちにとってはどんどん大変な環境になっている、と認識するべきです。

6月 22, 2008 at 01:20 午前 教育問題各種 |

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/2299/41605952

この記事へのトラックバック一覧です: 酒鬼薔薇世代と表現するのは良くないだろう:

コメント

コメントを書く