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2008.01.17

三菱ふそう・刑事裁判についての社説

三菱ふそう経営陣への有罪判決についての社説が、朝日新聞、日経新聞、毎日新聞、東京新聞、北海道新聞、中国新聞にありました。

その中から、面白い部分を紹介します。

朝日新聞

ほかの欠陥のクレーム隠しが発覚したのは、今回の事故の2年前だ。当時の運輸省は改善が必要な欠陥をすべて報告するように求めた。ところが、同社はクラッチ系統の欠陥を隠し続けた。

当時社長だった被告は、自社製品のクラッチに欠陥があること自体は知らなかった。しかし、部下が一部の欠陥を隠して運輸省に報告することを承認し、記者会見してリコール隠し問題に区切りをつけるとまで宣言した。

判決はこうした経過を認め、「事故は予測できなかった」という無罪主張を退けた。

そもそも被告は、社長に就任した当初から長年にわたるリコール隠しを知っていたのに、発覚するまで何も手を打たなかったというのだから、なんとも理解しがたい。

日経新聞

判決の「量刑の理由」に並ぶ言葉を見れば、有罪になったのは個人であっても、裁かれたのが「企業の犯罪」であることは明らかだ。

厳密な証拠評価と「疑わしきは被告人の利益に」を原則に行う刑事裁判で、3件で三菱自の隠ぺい工作が指弾され、2件で「リコールなどの改善措置をとっていれば事故は起きず人命は奪われなかった」と断罪された事実を三菱自の経営陣、従業員は重く受け止める必要がある。

自動車の“安全偽装”は、食品表示偽装などとは比べものにならない重大な危険をはらむことを、改めて肝に銘じてもらいたい。

毎日新聞

判決によれば、三菱自動車では30年も前から、販売した車の不具合情報を運輸省(現・国土交通省)に報告するものと秘匿するものに分けて二重管理し、指示改修の名でリコールの届け出をせず、独自に点検・改修していた。本件事故につながった不具合も90年以降、多発し、人身事故も起きていたのに、指示改修で済ませていた。河添被告らは安全対策が不十分だと承知していながら、手を打たなかったというのだから悪質極まりない。

しかも、社長被告は00年にリコール隠しが発覚した後、「今後はオープンにしよう」と指示していながら、実際にはその後もリコール隠しを了承し、自ら虚偽の事実を公表して批判をかわそうとしたという。大企業トップとしてのモラルもプライドも失っていた、と言わざるを得ない。

それにつけても、企業犯罪に対して社会は寛容すぎる。家庭でまで「仕事のため」という言い訳が容認されたり、いつの間にか利益のために不正や不法行為に目をつむることを是とする風潮までがはびこっている。社会を挙げて改善すべき点は少なくない。

業務上過失致死傷罪の法定刑も、妥当と言えるだろうか。いずれは事故を起こす車を世に送り出していた企業のトップの責任が、飲酒運転で人を死傷させた罪よりも軽くてよかろうはずはない。

不祥事が起きると、トカゲのしっぽ切りよろしく末端に責任を転嫁するのが企業体質の常であることにかんがみても、トップの刑事責任を厳しく問う必要がある。偽装トラブルの一掃のためにも、法的責任追及のあり方を見直すべきだ。

東京新聞

経営トップへの欠陥報告が適切にされなかったとすれば、それは組織に欠陥があり、企業統治そのものの問題といわざるを得ない。

消費者の生命や健康、安全を預かる企業であればこそ内部統制システムの確立が欠かせない。

不祥事を起こした企業に求められるのは、隠ぺい体質を打ち破り、速やかな原因分析、情報公開を進める姿勢である。そうした危機管理こそ、企業トップの役割でなければならないことを判決は、あらためて教えている。

いずれの社説も「イライラ感」を感じさせますが、パロマのストーブ事故を引き合いに出しているのは、ちょっと違うと感じます。

パロマの例は、違法修理なども含めて元の原因の大半は経年劣化でした。
死亡事故に至った原因は、メーカのパロマが「経年劣化すれば買い換え需要がある」と考えたようで、その結果修理部品が無くなり、違法修理になり、死亡事故に至った、と判断できることで、商品の経年劣化がガス中毒事故を引き起こすガス器具であったのに対応策を意図的に用意しなかった点が問題になったのでしょう。

三菱の事故は、他社のトラックなどでは起きないところが壊れているのですから、技術的には経年劣化の問題ではないし、点検をしないところが壊れている、つまり突然壊れていて、ガス湯沸かし器の「ガスが着かなくなったから違法修理した」という使用者やサービス業者に相当するところが三菱の事故では関わっていません。

製品が破損して死亡事故になったというところは同じでも、内容が全く違うでしょう。

それを「経営者の責任だ」とだけ言うのは、正に「失敗学」が扱うべき範囲であって、原因はいまだに解明されていないと言うべきだし、原因が未解明であるのなら、「本当の責任(者)はどこにあるのか」を困窮するべきです。
その意味では、社説はいずれも表層的な論に止まっている、と見るべきです。

1月 17, 2008 at 12:45 午後 もの作り |

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