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2008.01.29

自由競争社会は成立するか?

ちょっと問題提起になるかもしれませんが、最近いわゆる小泉改革の評価課が結果的にダメじゃないか、という意見と原理的にはあっている、という意見が交錯しているように感じています。

それでちょっと考えていて、小泉改革は自由競争に原理を置いていて消費者・需要家も自由競争の立場だとしているわけです。
確かに自由にサービスなどを選ぶことができるのはよいことではありますが、この説明だけでは自由競争が成立するための前提を論じていないのではないのか?と感じています。

考えてみると自由競争で競争開始以前の段階で情報を先に入手している人が勝利する可能性は極めて高いわけです。

ということは自由競争社会が円滑に機能する前提は情報が誰にも共通して伝わっていること、にあると言えます。

しかし、情報は供給しただけでは機能しないわけで、受け取って初めて情報となったといえます。
つまり情報を全員が共通して持つことは不可能だ。

結局は「そんな話は知らないよ」という人が出てくるに決まっているわけで、これは解消できません。

この種のバラツキはどのような問題でも上下に5%程度の「違い」は出てきますから、5%を減らす努力というのは恐ろしく効率の悪いものになって、5%の「違い」があるものとして、別途対策した方が現実的なのだろうと思います。

考えようによっては、上下に5%ずつ以上の最低でも10%の除外をして「自由競争」と言えるのか、とも言えるでしょう。

自由競争社会はユートピアである、と言えそうです。

1月 29, 2008 at 11:16 午前 日記・コラム・つぶやき |

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コメント

 「小泉改革」って何だったのかという定義がまずないとダメでしょう。彼が言ったことと、やったことがごっちゃ混ぜになっている。
 小泉が言ったことは、基本的には自由主義的経済体制で行くんだ、そのために公的経済を縮小するんだということ。
 しかし、実際にやったのは、道路公団や郵政公社の看板を付け替えるだけの「名ばかり民営化」であったり、「財政再建」と称して、実際には国債残高を激増させていたり、「公共事業の縮小」と称して、それを実際に行ったのは森内閣(小泉は路線を引きついだだけ)であったりという、ちぐはぐなものでした。
 彼が就任当時にまず言い出した「道路税の一般財源化」だって、法案の提出すらせず、今も実現する可能性は非常に低い。
 「何か言うだけで何もしないこと」を改革と言っていいという、妙な前例を残したのが小泉改革の最大の「功績」じゃないのですか?

投稿: Inoue | 2008/01/29 12:48:36

いや「いわゆる小泉改革」なので、小泉改革を論じるのではありません。

投稿: 酔うぞ | 2008/01/29 12:57:22

今回の記事は他の記事に比べて一寸分かりにくいような気がします。

>考えてみると自由競争で競争開始以前の段階で情報を先に入手している人が勝利する可能性は極めて高いわけです。

インサイダー取引のようなことなのか、とも思いましたが、株は市場で取り扱われているので、競争開始以前とも言えませんし。

「勝負する」人が関連した情報を得ている必要はあるのかもしれませんが、勝負しない人にとっては情報を得る必要もなく「誰しも」が「同時に」情報を得ることが条件ではないです。
競争に参加しようとしていたが、「そんな話は知らないよ」とならないようにする・・・のはバラツキの範疇なのか、話の背後にあるものがよく見えていないので見当違いの感想かもしれませんが。


投稿: 北風 | 2008/01/29 21:45:36

え~とですね。

競争をするのなら、全員参加であるのなら分かりやすいわけです。

ちょっと全体像が分かりにくくなりますが、不参加が明確である場合も、なんとか理解できます。
競争に参加しない人が居ることがはっきりしている、という意味ですね。

わたしが想定しているのは、競争があることを知らないから参加しない人が居る世界での自由競争社会とはどういう意味なのだ?ということです。

そして、競争に参加するために必要なのが情報であって、かつ情報は無数にあるわけですよね。

そうなると、一部の情報を知らないということが、競争があることを知らないから参加しないことになるのではないのか?という考えです。

この「知らないから」は法律についていえば「法の不知は救済されず」ですから、知らないことに責任があるとされるのですが、それをそのまま自由競争社会に適用したとすると、今度はあらゆる情報をすべての情報消費者に与えないと自由な競争にならない。

情報を得ることが競争だとすると、自由競争社会が実現せず、情報を全ての国民に与えることができるのか?と考えるとほとんど無理ではないか?

本文に示したように、何事にも10%程度の「その他」の人が居るわけですからね。

一体自由競争社会とは精密にはどう定義するものなのだろうか?
という疑問であります。

投稿: 酔うぞ | 2008/01/29 22:05:00

ありがとうございます。

>【競争があることを知らないから参加しない人を無くすためにはあらゆる情報をすべての情報消費者に与えないと自由な競争にならない】
ということは自由競争社会が円滑に機能する前提は情報が誰にも共通して伝わっていること、にあると言えます。

ということなのですね。
これはなんとも・・・。
制限つきで、「ある点について競争しようとするものにはそれに関した情報が伝わる」社会がせいぜいでしょうね。
「誰にも」という点でいえば、「ある一定の年齢以上の国民を対象」にして、その年齢までに「どのような競争がありそれに参加するにはどうするか、またそうした情報をえるにはどうするか」を教える・・・それをこそ「義務教育」とよぶ、とするならば、あるいは…。

投稿: 北風 | 2008/01/29 22:37:09

北風さん

>これはなんとも・・・。

でしょぉ~。

電車の中で考えていて「ありゃ??」となったのです。

確かに自由競争でないと新しいビジネスが潰される、なんて問題があるわけです。

その意味では自由競争に向かうべきだとは思っていたわけですが、ご承知の通り最近は「結果が問題じゃないか」という指摘も多くなってきました。

そこで、セーフティネットといった考え方が重要視されているのですが、何がセーフティネットで何が旧来のやり方なのか、どうやって区別するのだ?と考えているうちに「自由競争の前提は何よ?」となりました。

それで「情報の重要さ」となったわけですが、情報ですから、知っていて競争に参加しない人と、知らないから競争に参加しない人を同列に扱ったら、自由競争社会ではないだろう、となってしまったのです。

そこから「自由競争社会とはどのように構成されているものなのか?」という大変に根本的な疑問が出てきてしまいました。

投稿: 酔うぞ | 2008/01/30 17:46:16

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