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2007.12.16

生産・消費・市場・メディア

「新聞社のネットへの姿勢か?」は結局は新参メディアであるネットと以前からあるメディアである新聞との関わりが新聞社毎に違うだろうという観点で新聞記事を並べてみたものです。

新参メディアであるネットにとって別に新聞社や出版社だけが摩擦を起こしている相手ではなくて、音楽業界があるわけですが音楽業界の問題について小倉弁護士が「ライブの復権とネットとレコード会社」と書いています。わたしが注目したのは

The BeatlesのPlease Please Meがそうであったように、数時間のレコーディングで1枚のアルバムを作り上げることは可能です。

いずれにせよ長時間スタジオを借りなければレコーディングもままならないようなアーティストはいずれ淘汰されるようになるのではないかという気がします。

私は、特段レコード会社不要論に立つものではありませんが、とはいえ、アーティストの発掘、育成、プロモーションについでの主導権が、レコード会社からプロダクションに移行していく可能性は十分にあるとは思います。

ただ、欧米の例を見ると、「目利き」的な機能こそ、ネットがレコード会社を凌駕してしまう部分なのです(Kaminiなど典型ですが。)。

音楽CDが売れない理由は最大のマーケットである少年少女のお小遣いが昔はなかった、携帯電話とネットアクセスに吸い取られているからで、これは逆に見ると音楽CDを買う場合には無闇に買うわけにいかない(お金がもったいない)のだから「非常に厳しく吟味する」し一番売れる曲と二番目の曲の落差はものすごい差になる、といったことを引き起こすでしょう。

自分のことを考えてみると、FMで繰り返して流れているようないわゆるヒットCDを買うのはいつもかなり後回しにしていました。
それよりも「聞いたことのないCDから良い曲を見つけた楽しみ」の方が遙かに大きかった。
目利きの楽しみ、であったのでしょう。

パソコン通信が始まって、本を紹介するフォーラムとして冒険小説フォーラムの運営に関わって、ネット書評を確立してしまいましたが、これも目利きの楽しみを共有するというところがありました。

こうして考えると、情報交換の楽しみのかなり本質的な部分に「目利き」があるのではないか?
そして目利きは消費者(需要家)のものであって、生産者(供給者)は関わることが出来ない部分なのでありましょう。

であるとすると、旧メディア側がネットを供給サイドから評価していては、これは本質を見誤っているわけで、ネットを構成している利用者は本質的に需要家であり時には供給者になる、というのが平均的な実像でありましょう。

消費者=市場を無視して生き残った生産者は無いのであります。そういう観点で見ると、法的な保護が強い放送業界、テレビ離れ(番組離れ)で消費者に急速に見捨てられつつあるのは、誠に表徴的というべきかもしれません。

12月 16, 2007 at 09:27 午後 日記・コラム・つぶやき |

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コメント

 文芸批評理論というものが世の中にはあります。文学が典型ですが、音楽にだって批評理論があります。ところが、これをまともに踏まえて批評している人がほとんどいない。単なる印象批評なわけだ。
 印象批評を的確にやるには、『文学部唯野教授』によると小林秀雄なみの教養が必要だそうで、常人には無理です。
 「目利き」の人には、まず、標準的な批評理論に則った批評をしてもらわないと困ります。
 単に「おもしろかった」「つまらなかった」「好き」「きらい」の類は、評者と自分とがほとんど同じ感性の持ち主でないと信頼性が低い。

投稿: Inoue | 2007/12/16 23:17:51

>>The BeatlesのPlease Please Meがそうであったように、
>>数時間のレコーディングで1枚のアルバムを作り上げることは可能です。

デビューアルバムだから長時間かけさせてもらえなかっただけじゃないですかね?

>>いずれにせよ長時間スタジオを借りなければレコーディングもままならないようなアーティストは
>>いずれ淘汰されるようになるのではないかという気がします。

ビートルズも後には録音にとても手間をかけるようになったわけですから、
こんな主張の引き合いに出されるのは不本意じゃないかなぁ?

投稿: mino | 2007/12/17 12:28:44

わたしが興味を持つのは「なんでこういう議論が出始めたのか」であります。

わたしは、2ちゃんねる批判の代表的表現である「落書き」の意味とか、成り立ちといったものに非常に興味を持っています。

2ちゃんねる批判では「2ちゃんねるの書き込み落書きだ」→「だからダメなものだ」との論理展開が多いのですが、「落書き」=「ダメなもの」で済ませて良いかの?と思うのです。

平安時代から落首(らくしゅ)落書(らくしょ)というのがあります。
これらは、人出の多いところに「匿名で掲示を出した」事そのものであって、世相風刺であったようです。
ところで、どうして落首が出てきたのか?を考えてみると「人通りが多いから」でありましょう。

京の河原に落首があった、などと伝えられますが、言うまでもなく平安時代以来現代でも京都は世界的レベルの大都会であって平安時代でも道路や橋が整備されていて、多くの人が行き交った事でしょう。

つまり、道路や橋の整備→人通りの増加→落首といった流れがあったわけで、落書きそのものは人通りには関係なく書くことが出来るわけですが、話題になるほどの落首といったものは「人通りが多くならないと出てこない」ものだと考えています。

これは平たく言えば、ハードウェアや社会システムが整備されないと社会的なインパクトのある落書きなどは出てこない、という意味であって逆に言えばハードウェアや社会システムの熟成に伴って、当然生じる現象(文化)であるとして良いでしょう。

落首(落書き)は、明らかに「コンテンツとして意味がある」ものでしょうから、ハードウェアが整うとコンテンツが出てくる、というのは極めて理解しやすい構造です。

印刷技術が実用になって、すぐに版元とか版権といった「権利」が現実のものになって、それは著作権として整って来たわけですが、落首に代表されるコンテンツは読む人が多いという状況さえ整備されれば必ず出てくるのは歴史の示すところです。

この事を考えると、出版・放送・レコード業界といったところは、いわば橋や道路を整備しているような立場であって、どこかで勝手に書き込んでしまうとか使ってしまうコンテンツ制作者が出てくるのは必然であると思います。

ハードウェアなどを利用するのだから使用量を支払え、というのは当然かもしれませんが、ハードウェア制作者がそこにある内容を作り管理することが出来るのか?となると、歴史の示すところは「不可能」です。

つまりは、結局はハードウェアなどは後から出てくるコンテンツには負けるものだし、経済原則は供給者よりも需要家が強く、最終的には需要家が好むものしか残らないのが市場の原理でありましょう。

落書きの文化は「需要家が生産している」であって、生産してみたら商業的に大成功、という例は枚挙にいとまがありませんが、これも「自分たちが欲しい(需要がある)ものを作る」という「需要家が主体となる」ことに代わりがないと考えています。

こうなると、ネットの進化はコンテンツについて需要家(消費者)が簡単に供給者に変わりうる場を提供してしまったわけで、コンテンツの搬送役の出板・放送業界などは本当に搬送だけに特化して、コンテンツは市場から拾ってくる、といった構図が考えられます。

こうした考え方では、放送局が自分で番組を作ることが非常に大きなリスクを伴うと言えるわけで、ディスカバリーチャンネルなどはすでに番組を買って世界中に供給するビジネスになっています。

まぁ、今後どのように変化していくのか非常に楽しみにしています。

投稿: 酔うぞ | 2007/12/17 21:45:46

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