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2007.11.28

実験の考察の書き方は練習していない

apj さんも取り上げている朝日新聞の記事「小中学生理科、考える力身につかず 国立教育研究所調査

理科の実験で、結果が予想と違った場合、原因を調べようという子どもは、小学校より中学校の方が少ない――こんな傾向が、国立教育政策研究所が27日にまとめた理科の授業の課題調査で分かった。8割以上の子どもが「実験や観察が好き」と答えたが、研究所は、実験結果から考察したり活用したりする力はあまり定着していない、と分析している。

調査は06年1~2月、全国の小中学校211校の小5生3284人と中2生3196人を対象に行われた。

小5の90%、中2の82%が「観察や実験が好き」「どちらかと言えば好き」と答えた。一方、「考えが正しいか調べるため、観察や実験の方法を自分で考える」は小5の61%に対し、中2は29%。「予想と異なった時に原因を調べようとする」は小5が59%で、中2は48%だった。同研究所は「学年が進むと内容が高度になるという面はあるものの、課題がある」としている。

考える力が身についていないことは、具体的な問題の正答率にも表れている。調査では、実験や観察の様子をビデオで見せて出題した。

小5では、「インゲン豆の発芽には肥料が必要である」という予想の当否を実験で確かめる問題が出された。必要な実験を選ぶ段階では87%が正解したが、「予想は間違っていた」という結論まで到達できたのは39%。電球からフィラメントを取り出して通電させる中2の問題では、外気中ではすぐに切れる理由は56%が正解したが、長く輝かせる方法まで答えられたのは40%だった。

実験をして考察瀬要という課題だというので「どうやったんだ?」と思っていたら「ビデオを見せた」のですか・・・・・。

何ヶ月前の報道で、

死んでも生き返ると考える生徒が
中学校になると小学校よりも増える
というのがありました。

コリャなんだ?と思いますが、実際に小学校に行くと色々な生き物を飼っていて、沼津の小学校ではヤギがいて驚きました。
これが、中学になるとゲームとマンガに移ってしまうから「死んでも生き返る」なんて言い出すのかとも思います。

高校生になると、表現そのものが非常に抑制的になって「みんなと同じ」といった言い方が主力なります。
一言で言えば「分からない問題には答えない」となります。

わたしはこれには受験技術が大きく影響しているのではないのか?と考えています。
受験技術=受験勉強は極めて反射神経というか運動部的なやり方が主流なのだそうで、

  • 簡単に融ける問題から解くことで回答数を増やす。
  • 一瞬で解ける問題を見つけ出す練習をする
  • 問題に短時間で回答にするためにパターンとして問題を覚える

こんな勉強をするとは「考える時間があれば回答しろ」ということになるわけで、学年が進むにつれて「考えないで反射的に回答する」になっていきます。
特にちょっと成績がよい学校だと、書くのだけが異様に速かったりする。

別の言い方をするとこれでは「表現の仕方も切り捨てる」事になるでしょう。
そこに「考察せよ」という課題が来たらどうなるか?
多分受験勉強に接している中学生では「試験範囲に無いから答えない」という面が出てくるように思います。

apj さんは

 考えるといっても、それには経験が必要では。知識が少ない状態で考えても、トンデモに突っ込んで玉砕するだけのような気がするが……。

とおっしゃっていて、知識の少なさを経験を通じて増やす事で、考察することができるのに中学生は出題(考察)と回答する能力の背景となる経験のミスマッチというご意見かと理解しました。

わたしはもっとずっと悲観的で、現在の多くの試験では考察に優れている生徒を排除するような、マス埋めとか○×(マークシート)などが多く、かつ出題範囲も事前の取り決めに厳密に従うことになっているのですから、優れた考察が出来ることが受験では負けるになる、という理解があると感じています。

若い人が勉強するのは社会にとって非常に重要な事ですが、こと受験については勉強ではないく別のものではないか?と強く感じます。

近頃の子どもは・・・とは昔から言われていますが、小学生を対象にもの作り教室をやってみると2時間の授業時間の最後の方で体育館で勝手に遊ばせると、昔の子どもたちがやっていたことと同じになります。 約一時間で、子どもの生の姿が現れます。

これが高校生になると、週に一度の授業だと数回から十数回、時間にして一月から半年ぐらい掛けないと「若々しい議論」なんてものにたどり着きません。

確かに、子どものうちに夢想的であったりすると学校の成績は悪くなるところもありますが、全部排除して受験に勝つことが正義であると押し通している現在の「教育」が個人的主張の発露はもちろん、考察の発表とか小論文の記述といった「創造性を必要とする方面」をひどく貶めているのではないか?と強く感じています。

11月 28, 2007 at 01:53 午前 教育問題各種 |

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 直前のエントリ知識の絶対量も問題ではで、「考えるといっても、それには経験が必要では。知識が少ない状態で考えても、トンデモに突っ込んで玉砕するだけのような気がするが……。」と簡単にコメントした。これについて、亀@渋研Xさんのところや、酔うぞさんのところで...... 続きを読む

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» 特定の課題に関する調査(理科) トラックバック ある物理屋のつぶやき
http://www.nier.go.jp/kaihatsu/tokutei_r 続きを読む

受信: 2007/12/13 14:57:34

コメント

未来を予測する最良の方法は、未来を創りだすことだ
(The best way to predict future is to invent it)
と述べているアラン・ケイは既に以下のように書いています。

「・・紀元1300年、まだ印刷が発明される以前には、ギルドに属していない人間はどこかの部屋へいき、自分に話しかける人間の言葉に耳を傾けました。これは学校と呼ばれました。
そこへ”B・O・O・K”--”Basic Organization Of Knowledge”という、ソリッドステート方式、容量2.5メガバイト、運搬きわめて容易、1メガバイトあたり1ドルという低価格の素晴らしい装置が発明されました。1億カートリッジほどの種類があり、ほとんどどこででも手に入れることができました。これは教育・学習用の素晴らしい道具ですが、今世紀になつても、この道具をほんとうの意味でカリキュラムに組み込むことすらもできていないのです。じつは、教師はいまだに紀元1300年にしがみついているのです。

わたしがもう少し偏執的な人間なら、現代の教育界のエスタブリッシュメントたちは、読書というものをわざと退屈でうっとうしいものに変え、学習者の書物に対する関心を根絶やしにすることによって、自分たちの仕事の安泰をはかっている、と考えているところでしょう。

現代の学校とは、どのようなものでしょうか?
30人の人間が他の人間が話すのをきく場所--まるで中世そのままじゃないですか!

『教えること』--わたしは、教師の壷から生徒の壷へと、数リットルぶんの知識が注ぎ込まれる、といった流体理論のようなものを思い浮かべます--と、『学習の概念』--学習者の内部で起こるなんらかのプロセスを暗示しています--とのあいだには、とてつもなく大きな違いが横たわっている、ということを申しあげておきます。

たまたま、わたし自身は後者の見方を好みますし、われわれが後者のほうに賛同するなら、こちらに集中すればいいじゃないですか。・・」

アラン・ケイ(1992年 第1版第4刷)Alan Curtis Kay(アラン・カーティス・ケイ)著 株式会社アスキー発行 P138-P139より引用

既に彼はアメリカで低学年の生徒を対象にした「学習の概念」に基づいた教育実験を実施しており、スクウィーク(Squeak)という名の教育用のソフトを無料で公開しています。

日本ではまるで徴兵制度の様な教育(幼稚園から大学まで同一年齢層の若者を学校という名の兵舎に押し込めて同一の内容を強制的に覚えさせる)を行っており、精神的な拷問に等しい行為だと私は考えています。

現在及び将来の日本の若者に期待されている能力とは、プロフェッショナルとしての能力であり、技能五輪の田上 俊一(たのうえ しゅんいち)選手のように「ひとつの技能に秀でた者は幅広い応用力を持つ」若者であると私は考えます。

上記の様な能力は「教師の壷から生徒の壷へと、数リットルぶんの知識が注ぎ込まれる、といった流体理論のようなもの」ではなく、「学習者の内部で起こるなんらかのプロセス」によつて自分で獲得しなければ得られない能力であり、私の個人的な体験では10歳位より自分で学んで自分に教える以外に獲得する方法は無いと考えます。

個人の持つ遺伝子や生活環境により、「学習者の内部で起こるなんらかのプロセス」はかなりのバラツキがあると予想されるので、外見上は大人(外国人や教育の専門家等)が小学生に混じって授業を受けるとか、外見上は中学生(一つの事に特化して時間をつぎ込んだ結果、ひとつの技能に秀でた者)が大学で講義する事も「学習者の内部で起こるなんらかのプロセス」という判断基準で見た場合妥当であるならば認められてしかるべきだと私は考えます。

ちなみに私の場合、あまりにしつこく母親を質問攻めにしたため10歳位で「自分で調べなさい」という言葉と共に見捨てられた結果、30年間位能天気で過ごす羽目になり、40歳位で初めて「自分で学んで自分に教える以外に方法は無い」事にやっと気付いた結果、現在外見上は60歳に近いのに学習能力は30歳にも届かないというなさけないありさまです。

投稿: 田吾作 | 2007/11/28 19:25:41

apjさんのブログ経由(白河高校関連のエントリだったかな?)でこちらのブログを知ってから、ちょくちょく拝見しております。

ちょっと前に情報Aのペーパーテストを作る事になり、「Eメールを送信する上で注意する事は何か?」という、ものすごく大雑把(というかテキトー)な記述式の問題を出したことがあります。

そうすると出るわ出るわ、面白い回答の数々。

ボクとしては、ほぼ全員を正解にさせたくてこういう問題を作ったんですが、採点側としては答えが一意ではないので採点基準がハッキリしない!と情報の先生にお叱りを受けました(そもそもボクは教員免許すら持っていない1年契約「非常勤助手」の立場なのに、多忙にかまけて問題作成を押し付けた当人にそんな事を言われても...という気持ちもあったのですが)。

その先生、情報教員の勉強会?みたいなものにも積極的に参加されているようで、勉強会に触発されてなのか、やれKJ法だ、やれ30秒プレゼンだ、と本人自身がちゃんと消化しきれていない状態で授業に導入するもんだから大変な事になったりしました。

今の日本の教育システム自体に問題があるといっても、現場(特に情報の教科)でそれなりに工夫できることはあると思うんですけどねえ。昔と比較しての事務処理量うんぬんを除いても、教員自身の「器」みたいなものも小さくなっているような気がします。まあその情報の先生は、待遇は非常勤、仕事内容は専任並みの、「常勤講師」という最も悲惨なポジションなのでしょうがない面もありますが。

あ、ちなみに関西私立高校の話です。(公立とはまた違うと思いますが。ボクなんか理事長代わった途端契約満了で切られちゃったし...)

投稿: tree | 2007/11/29 2:47:42

「死んでも生き返る」が中学のほうが多いというのは、単に大人(教師)の言うことを聞かない生徒が増えてまじめに答えなかっただけという可能性があります。

また中学生になることで、輪廻転生や人の心の中に生きている、クローン技術の進歩など発想が多様化した結果「生き返るの定義が拡大」していることが調査結果にも出ています。

結局はゲームや漫画をスケープゴートにしたい教育者の乱暴なアンケートだったのではという気がしてなりません。
一度報告書には目を通すことをお勧めします。
http://www.pref.nagasaki.jp/cgi-local/koho_cgi/kensei_news.cgi?mode=detail_disp&yymmdd=20050124&year=2005&month=01&day=24&dno=09&pno=09&key=

投稿: サルガッソー | 2007/11/29 4:37:47

tree さん

わたしも社会人講師でサッカーロボット製作授業をやっていますが、高校生ということもあってかなり勝手にやらせてもらっています。

基本的な狙いが「回答のない問題に挑戦する」を生徒には知らせないで目標にしていますから、毎回の課題がどんどん「抽象的な表現」になっていっています。

それでも生徒は勝手な表現で目標に到達しようとするし、積極的にチーム内で議論したりするようになります。

総合学習だから出来ることで、教科では難しいですよね。

こんな形で関わってみると、逆に日本の教科学習のシステムがものすごく研ぎ澄まされて能率の良い教育システムとして完成しているのだ、とよく分かるようになってきました。

企業内の教育と比較すると、どの企業でもやっているのが「OJT」ですが、言葉を替えれば「徒弟制度」の変形であるとも言えます、これは確かに深い技術や技能を伝えることは出来ますが、時間がものすごく掛かりますし伝えることが出来ることの幅も狭い。

深さと幅だから面積として考えると、学校教育の教科学習システムは圧倒的に大面積をカバーしています。

結局は、社会教育といわれた分野が激減したしたのが問題かと思っています。

わたしは、学校に関わって4年になりますが、当初は先生と同じ方向性でやらないといけないのかな、と思っていたのですが今では「社会人として」と立場を重視する方向に変わっています。

なんでもかんでも学校教育に求めること自体が間違いなのでしょう。

投稿: 酔うぞ | 2007/11/29 8:00:06

酔うぞさん

ご返答ありがとうございます。

>なんでもかんでも学校教育に求めること自体が間違いなのでしょう。

その通りなんでしょうね。マスコミの方はわずかながらその問題に気付きつつある傾向が見られますが、最も重要な親御さんの方がどうなんだろ?と思うことがあります。

>わたしは、学校に関わって4年になりますが、当初は先生と同じ方向性でやらないといけないのかな、と思っていたのですが今では「社会人として」と立場を重視する方向に変わっています。

これはすごく同感です。ボクが情報のお手伝いをしていた時も、「少なくとも受験科目じゃないんだからもうちょっと面白いことをしましょうよ。」と先生方を徐々に感化(おこがましい表現ですが)させようと頑張りました。けれど、どうしても教科学習的な「型」にこだわられてしまいました(それなりには面白くできたと思っているのですが)。

投稿: tree | 2007/11/29 10:57:09

 皆さんは現在のいわゆる「有名大学」の入学試験をご覧になったことがありますか? ご自分の得意な教科で結構です。
 ご覧になれば、多少認識も変わるのではないかと考えます。
 「反射神経」とか「パターン」が介在する余地は少ないのではないかと私は認識しています(数学と情報しか見ていませんが)(ちなみに情報は入学試験に課される場合があります)
 もちろんアチーブメントテストという形式をとる限り、限界は存在するし、センターテストに皆さんのお考えになる弊害が多少現れていることは否定しません。
 ただ、私はこの議論をうけてもう一度問題を見直しましたが(数学だけですが)、センターテストって、そんなに変なテストでしょうか。厳しい制約の中で、比較的頑張っている気がするのは、教育現場の中で変な固定観念に毒されているせいでしょうか。
 本当に受験の為に、本来やるべきことがスポイルされているのか、実は私は多少疑問に思っています。

投稿: miya.h | 2007/11/30 9:04:07

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