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2007.06.20

精神論で結論とするな

「エレベータのワイヤーが破断していたのは問題なのか?」ではエレベータのワイヤーが切れていたというレポートが出たから「エレベータのワイヤーが切れるとはトンでもない」として「検査を厳重にしろ」という声が出てくるだろうことを予測して書きました。

そうしたら果たしてビンゴとでも言うべき社説を読売新聞が発表しています。「エレベーター こんなずさん点検では不安だ

1万基に1基弱の割合だが、命綱ともいえるロープの点検漏れである。建築基準法で義務付けられている定期検査制度を早急に見直すべきだ。

42基のうち15基は、時間の経過に伴う経年劣化が原因だった。国交省は「鉄線の何本かが切れるのは、想定の範囲内だが、鉄線をより合わせた束自体が破断することは、通常ではあり得ない。ずさんな検査・点検で劣化が見過ごされた可能性がある」としている。

事故機のロープには、赤さびや油がこびりつき、縄目も見えない状態になっていた。定期検査の際もロープの太さを調べただけで済ましていたという。

その後、破断事故が各地で相次いで明るみに出ていた。一部の保守管理会社の問題ではない。国交省の調査も、こうした事態を深刻に受け止めたためだ。

東京・港区の高層住宅のエレベーターで昨年6月、男子高校生が死亡した事故は、ドアが開いた状態のまま突然上昇し始めたために起きた。警視庁が業務上過失致死容疑で捜査しているが、やはり定期検査の不備が指摘されている。

保守管理会社2社の社員など計67人が実務経験を偽ってエレベーターの法定検査の資格を得ていた問題も発覚した。国交省は「会社ぐるみの不正行為」と断じたが、法人に対する罰則や行政処分がないのも問題である。

エレベーターのドアが開かず、閉じこめられるトラブルも頻発している。乗るのもこわごわ、というのでは困ったものだ。業界としても、安全性の向上に取り組むべきである。

「エレベータのワイヤーが破断していたのは問題なのか?」で指摘したとおり「経年」が問題なのか「破断」が問題なのかによって、対応策は全く変わってくる。
この社説では、結局は国交省の「ずさんな検査・点検で劣化が見過ごされた可能性」を踏襲しているわけで、対策は「点検で劣化を見逃すな」にしかならない。

「点検で見逃すな」というだけでは精神論であって、現実の対策の提案は「どうやれば見逃さないようになるか」とか「破断する程劣化する前にワイヤーを交換するか」であろう。

エレベータのワイヤーといった極めて物理的現象について、精神論のごときことを社説で述べるのは適切とは思えない。
日本では往々にして精神論的なところに議論が逃げ込むことが多いのだが、現実に効果のある対策は環境の整備であったりインセンティブの強化や罰則の強化など、精神論とは正反対のことである。

読売新聞社説が指摘するべきなのは、国交省がエレベータの安全についてこんな精神論的な発表ではなくて実際的に効果が期待できるような「対策」を発表させることだろう。

6月 20, 2007 at 08:21 午前 日記・コラム・つぶやき |

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コメント

えーと,書く所間違えたかな......

正直言いまして,経年劣化をストランド切れまで放置してる状態では真面目に点検しろの一言で終わらせてしまっても良いように思います
んで,真面目に点検しないのなら法定検査報告の拒絶と無検査使用の禁止処分ですね
行政処分は法に拠らずとも可能ですし,やらないとは思わないですが......

定量的な検査方法までは知らないのですが,定性的なチェックは難しい物ではありません
錆は論外として,油や埃の付着は劣化のチェックの致命的な障害にはなりません
検査履歴が残っていれば,素線切れの記録から寿命は明らかです
定量的な数値として"劣化した部分の"太さのチェックで充分な検査精度を保てるとも思います
また,検査間隔より短い期間で劣化が進むようなら設計/施工のミスです

現場ややくざな建設系の保守会社に舐められる当局が哀れにさえ感じます
寧ろ報道機関はもっと保守会社を攻撃しても良いと思います
無論,そのような状態で放置していた当局に対しての指弾も必要でしょうがね

投稿: tsujimo | 2007/06/21 2:05:25

tsujimoさん

わたしは社会的事故を国レベルで分析する事故調査を制度化する必要があるだろうと思っています。

個々の事故について、行政が指導監督するとか、業者をマスコミか非難する、といった現在行われていること以外のところを主に社会的な問題として何とかするべきでないか、と思っているのです。

事故の内容を調査検討をしないで、対策らしきものを声高に主張すると、最終的には精神論になってしまうと考えています。
過去の失敗例にも多く見られることで、失敗学の提案になっています。

注意義務の喚起などとは別に冷徹な分析が必要なのは間違えないところで、現行法制では事故原因調査に協力すると、刑法上で不利になるのですから事故原因の分析など進むわけがない。

その一方で、分析に掛かる前に設備などを改修してしまえば、社会的には「対応が早い」と良い評価がされる。
警察が事故原因の調査をしているために、エキスポランドのコースターは止まっているようですが、刑事事件としての事故原因調査は対策を研究することが目的ではので、対策は出てこない。
事故対策を技術的・社会的に推し進めると、一般常識を変えていくようなことになるはずで、個々の事件についてだけ「点検を増やせばよい」では「我が社は、事故を起こした会社より1割増しの点検体制だ」などということになりかねません。

いわばハインリッヒの法則の述べる、ヒヤリを止めれば重大事故に至らない、と分かっていながら重大事故さえ起こらなければよい、とやっているようものでしょうか?
これは明らかに社会的にコストアップになっているはずです。

個々の事故に着目して対策しているだけだと、社会の安全が技術的にも論理的にも首尾一貫したものにならないで、まるでパッチワークのようなことになっていくでしょう。

個別の事故についての対応は、現在の状況が行政も刑法も大問題というところはないです。
しかし、個別の事故だけを問題にしていては将来の事故防止にはならないし、まして新製品や新技術の採用などでより安全になる保証は無いわけです。
新製品・新技術が将来の安全を高めるという社会的な担保が無く、問題があれば刑事責任を追及するというで良いのか?ということに関心が向いています。

投稿: 酔うぞ | 2007/06/21 7:51:27

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