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2006.12.27

人はデジタルを求める

中西先生「雑感」にちょっと興味を引かれる記事を見つけた。
Renn教授のスライド

12月12日の雑感に、私はDurnwoodyの講演の内容を紹介したが、それも同じようなことだと思う。
この雑感を読んで、その日の内に、西澤真理子さんから貴重な情報を頂いた、これをここに紹介する。

西澤さんは、リテラジャパン代表・Stuttgart大学環境社会学科研究員をしているのだが、Stuttgart大学のOrtwin Renn教授がよく引用する言葉があるというので送って頂いた。ここにそのスライドを示す。

「人が求めるのは知識ではなく、確実なことだ」

「政策決定者は、確実なことを与えることはできないが、不確実なことに対して、思慮深く対処するための方法やしくみを人々が見つけ、慣れていくことを助けることはできる」
なるほどなと思う。そのまま伝えるのがリスクコミュニケーションではない。
こういう気持ちで、リスクコミュニケーションの問題を考えていきたい。
ここで元になっている記事が、12月12日の「面白かったDurnwoodyの講演」とのことなのでこちらを読んでみる。
「リスクについての意思決定と不確実性についての公衆の認識とメディアの役割」。
不確実性の認識が、専門家(意思決定機関の人々)と公衆との間に差がある。

それは、external uncertaintyとinternal uncertaintyの違いとして説明できる。
専門家はexternal uncertaintyを問題だと考えるが、公衆が考える不確実性は違うのだ。
Internal uncertaintyについての説明が欲しかったが、それはなかった。

彼女の論文も読んだことがないので、本当に言いたいことを私がとらえているかどうかは疑問だが、実は、これに類することを考えることがしばしばある。

専門家が、ある数字の不確実性を、数字で示す、10~1000の間とか。
ところが、聞いている方は、そういうことはどうでもよくて、専門家に任せますという。
私が関心あるのは、Aという地区とBという地区に違いがあるのかだと言われることがある。

必要もない不確実性について、長々と説明しているのではないか、そこは、専門家に任されている領域であって、市民が関心のある領域は、そこではないというようなことをしばしば感じてきた。

そこに、マスメディアの役割もあるのだと、Durnwoodyの話しを聞きながら、このことを、もう少し系統的に考えてみようと思った。


「人が求めるのは知識ではなく、確実なことだ」

これはなかなかすごい意見で、今自分で問題にしていることのほとんどの回答のように思えます。

高校生と話したり、掲示板での相談に回答していると「正しいのか間違っているのかはっきりしろ」といったことを非常に重要視しているのが今の風潮であると感じています。

わたしはこれを「デジタル的価値観」などと呼んでいますが、インターネットの掲示板での相談などでは、全体のわからないわずかな情報から、それなりの判断をするのであれば「あれあれば、これもある」的な白黒のつかないいわば灰色の回答になります。

これがどうも灰色と受けとってもらえない、白あるいは黒と決めつけられてしまいます。
どうも見ている方が、世の中には白と黒しかないと思い込んでいるように思えるのです。
こういうことを知ると、説明はますます長くなり、どんどん分かりにくくなってしまいます。
わたしは「どうして灰色ということが伝わらないのだろうか?」と思っていたのですが、この「人が求めるのは知識ではなく、確実なことだ」という言葉は、すべてを圧倒してしまいます。

つまりは「灰色であるという知識は不要」だったのですね、それでは受け取る人は「白あるいは黒」と受け取るのも無理はない。
なぜ伝わらないのかという理由はよくわかったけれども、じゃあ世の中に灰色はないとは言えないわけで、どうやって灰色であることを伝えようかという悩みはよりいっそう深くなりました。

12月 27, 2006 at 03:06 午後 日記・コラム・つぶやき |

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コメント

酔うぞさん
 これは広い意味での教育しかないのではないでしょうか。
 私は、一般向け科学雑誌などを愛読するうちに、「答えは白/黒はっきり決まるものではない」という考えに馴染んでいきました。
 と同時に、「そういう事実に直面したとき、どういう行動をとるかを決定するのは自分なのだから、結局は自己責任だ」ということも理解するようになりました。
 ただし、それは「科学的な話題や思考法が好きで,かつ格好いいと思っていた」という私の個人的な好みがきっかけになっています。
 いずれにせよ、現状では、何のきっかけでもいいから、実体験の中で上記のような思考法を実感するしかないでしょう。
 もし教育で似たようなことをやろうとすれば、理科教育の充実と、論理学及び確率・統計を高校までに徹底的に教え込むしかないように思います。

投稿: qur | 2006/12/28 21:58:07

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