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2006.02.14

国語教育に重点だけではダメだ

社会人講師として昨年から主に高校の教室に行くようになって、今の高校生のどこに問題があるのかが分かってきたように感じています。

会話の出来ない高校生が最大の問題でしょう。

こういう風に書くと「キチンとした会話が出来ない」と思われるでしょうが、もっとずっと深刻です。

電車の中で数人で騒いでいる高校生をよく観察してみると分かりますが、しゃべっている生徒が居ても相手が携帯を触っていたりします。これを聖徳太子のように「ながらコミュニケーションが出来ている」と思ったら大違い。聞いていません。
しゃべっている方も聞いてもらう・聞かせる努力をしていない。
普通は会話とはあるテーマが二人以上の間で行ったり来たりするキャッチボールのようなものでしょう。
そこが成立していない、結局は一人でマンガやテレビ・ゲームを見ながら「そこだ!やっちまえ!!」というかけ声と変わらないことを相手の目の前にして電車の中でやっている。
こんな調子だから、説明するどころか、聞き取ることが出来ません。これは明らかに「国語力の低下」ではありますが、それが産経新聞社説より「ゆとり教育是正 評価したい国語力の重視」というまとめになるのか?
違うと思う。
現行学習指導要領は、「生きる力」をはぐくむことを目指して、ゆとり教育を導入したが、かえって学力の低下が憂慮される結果を招いた。OECD(経済協力開発機構)学習到達度調査では、読解力や数学的応用力などで著しく劣ることが分かった。

小学校段階において、読む力を身につけるために、音読や朗読・暗唱が指導上有効であるとして、古典や名作に触れ、わが国の言語文化に親しむ機会の重要性を打ち出したことは、適切な認識であり、これを歓迎したい。

常用漢字は千九百四十五字である。アルファベットを用いている国々の小学生が二千語のつづりを覚える苦労を考えれば、文字自体に意味を有し、有意味的な構造を持つ漢字の二千字程度は言語習得能力の大きい小学校低学年のうちに簡単に覚えられるはずだ。習得漢字の拡大が望まれる。

これは学校教育に要求するだけではうまくいかない。家庭や社会にも国語が人間力を養う基盤という認識を強く浸透させ、子供に読書に親しませる環境を不断につくっていくことが重要なのは言をまたない。
まずは子供が居る家庭で大人もテレビを見ないで会話するとか、ゲーム機で遊ぶ時間を制限する、といった学校教育以外のところを何とかする方が先決だろう。
会話力の教育で学校が出来る部分はほんの少しだ、ゲーム機を使わせないとか携帯電話を使わせないぐらいしか無いように思う。それでやることがないとなっては学校が成立しないだろうから、なんか会話を楽しむといったことを学校内で積極的にやるしか無いだろう。
大筋で産経新聞の社説を否定するものではないが、現実はもっと厳しい。高校生だと優秀な進学校とされる高校と進学が少ないとされる高校では、学校内での態度がチャンとしていても電車の中などではまるで違うという現象が現実に起きています。
これはもう完全に学校も含む社会の問題で学校や学校の教育内容を触れば何とかなるという問題ではないと思う。

2月 14, 2006 at 10:30 午前 教育問題各種 |

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受信: 2006/02/14 12:22:19

コメント

う~ん、ステロタイプなオタク批判に近い論調に感じるんですが。アニメやネットに没頭してるから対人関係が築けないとか。

相手の目を見て話しなさいとか、会話における最低限のプロトコル修得には、家庭教育もそうですが、幼稚園や小学校低学年での教育もかなり重要な要素を占めていると思いますよ。携帯は「使わせない」のではなく、必要なときに切らせる、仕舞わせることを教えるべきだと思いますし。

投稿: 中山 | 2006/02/14 11:29:41

現実を見ての上の話ですよ。

確かにステレオタイプになっているし、整理も出来ていない。
具体的な提言も出来ません。

誰かが出来るのならこんなことなっていない。

今、神奈川県の中低位県立高校で学費からPTA会費、就学旅行代が支払えない生徒がアルバイトで学費を稼ぎ、学費免除と組み合わせてカツカツでやっているのが相当数になっている時に
理念だけではどうにもならないですよ。

社説がもっともだと思ってはダメだと言いたいわけです。
論点はここですね。

投稿: 酔うぞ | 2006/02/14 12:02:57

プロトコルは使われなければ取得されないですね。そして、オタクは、共通の話題があったときのコミュニケーション能力は高いですよ(笑

コミュニケーションしようという意識、コミュニケーションしなければならないという必要性、そっちの問題であって、技術の問題ではないと思いますね。

それを技術のみで改善しようとしても、それで出来るのはライブドアですよ(爆

投稿: Tiger | 2006/02/14 12:31:26

 高校生に限った問題じゃないですよ。

 年配の人の方がむしろ問題です。こう考えている、ということをきちんと伝えても、「いずれ気が変わるだろうから」などと勝手な判断をくっつけて意図通りに行動してくれない親族に本気で腹を立てたので、只今絶縁する準備の真っ最中です。あの世代、ゲームもアニメも関係なかった筈ですが、コミュニケーション能力が皆無です。
 日本語が通じない世代が親より上から続いているわけだから、ある意味当たり前な気もしますよ。

投稿: apj | 2006/02/14 14:25:33

aoj さん
そうなんです。
高校生・中学生はある意味で結果であって、原因は明らかに「こんな高校生を作る」とやったわけではないから「大人のマネや、その生活に浸かっていたら、こうなった」なのです。

つまり大人も相当怪しい。
なんか「うまくやる」というのが抜け落ちてしまった、と感じます。

ヤマハだったミツトヨだって「ヤバイかも」と感じろよな!と思うのです。

これを「箇条書きをチェックすると書いてないからOK」とやって突っ走ったのがライブドアです。

そういうアナログなことや雰囲気といったものを、国語教育だけでなんとかなるというのは、あまりに楽天的というか的を外していると思います。

だいたい、誰とも話をしない、何も読まないのなら国語教育なんて不要だよ。手段を目的にしているような話だと思う。
(これから、高校の教材作りだわ)

投稿: 酔うぞ | 2006/02/14 16:27:05

 というか、雰囲気なんてあやふやなモノに頼らなくてもいいように、デジタルに(?)抜けのないマニュアルをしっかり作るノウハウとか、それを徹底させる教育をやった方がよくないですかね?

投稿: apj | 2006/02/14 18:26:52

そら無理だと思うのですがね。
デジタルの初期のころに大学に居たのですが、デジタルにしてデータを割り切ることと、その間にあるデータをどうするのか、という問題は悩みましたよ。

日本の法律は「解釈」がありますが、これは優れた考え方だと思っています。

結局は実社会をデジタル的に整理することは不可能だ、と思っているからで考えないでも済むデジタルの適用の限界を理解する方が(社会としては)健全だと思っているのです。

投稿: 酔うぞ | 2006/02/14 19:14:18

 自然界は基本的にアナログでできていますよね。
 そのアナログな情報をなんでもデジタルに括って理解しようとするなんざ、正気の沙汰じゃ無いですよね。

投稿: craftsman | 2006/02/15 1:44:26

アナログとかデジタルとかいう以前に、抜けのないマニュアルってのは、絶対に事故の起こらない原発みたいなもので、あり得ないのではないでしょうか。

抜けはある、ミスもする、でも、それをなんとかフォローするときに必要なのが知恵ってもので、知恵足らずの知識ばかりの頭でっかちが増えたから、コミュニケーションが成り立たないことが増えたんだというように感じています。

未成年のうちは、小さな恥をかいたり、失敗したり、そういうことを繰り返して、頭と体に汗をかいた方が良いと思うんですね。恥をかく、というのは、周りから見られていないと恥にならないもので、結局は、子供をよく見ることが社会の中で不足しているんではないかと。

子供に背を向けて、社会から守るより、子供に目を向けて、間違ったときに、それは間違っているんだ、ということをしっかり伝えること、そして、うまくいったときには褒めてやること、そっちの方がマニュアルを作って与えるよりはよほど重要かと・・・。

そういう苦労を大人が厭うから、そして、そういう余裕を持てない社会であることが根っこなんだろうと感じています。

投稿: Tiger | 2006/02/15 10:12:40

先生、お役所さらにはわれわれ野次馬級も含めて、個人レベルでは分かっているのだと思います。

それを「学校教育だから」とワクをはめて教えるのでしょうが、この仕組みの暗黙の前提は家庭・社会でも教育はあって当然、ということだったのでしょう。

それを「教育は学校」とする風潮があるのではないでしょうか?
また学校も「これは家庭の問題です」ということも少ないみたい。

正に「苦労を厭う社会」になっていますが、これは何回も説明していますが、堺屋太一が指摘した「単一機能の集中を善とすることの問題」そのものでありましょう。

住宅団地を造り、工業団地を造ると工場の公害処理、24時間操業問題などがかなり簡単にクリアーされます。

しかし、これで何十年か経ってみると「子どもたちが職場を見たことがない」となってきます。

専門化することが、衝撃に脆い体質を作ったというべきでしょう。

神奈川県の公立高校では2008年度から全校で職業についての授業が義務化されます。
文科省は「中学校でもやる」と言ってます。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/career/

これはこれで社会と触れるのだから、やらないよりはマシだと思いますが、内容を聞くと「仕事についての授業」であって学校内にとどまっているのですね。
さらに学校が生徒に紹介する仕事の例が現実離れしていて「人気の職業」「話題の職業」に偏ります。

ここらも国語の授業をなんとかすれば、と同じでどうも「学校教育に過度の期待をしている」という構図は変わらないのですが、今後必要なのは学校教育と社会教育の連携でしょう。
かなりの大問題だと思うのですがねぇ。

投稿: 酔うぞ | 2006/02/15 14:09:32

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